吉川英治『三国志(新聞連載版)』(700)鉄鎖の陣(一)
昭和16年(1941)12月30日(火)付掲載(12月29日(月)配達)
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数日の後。
水軍の総大将毛玠、于禁のふたりが、曹操の前へ来て、謹んで告げた。
「江湾の兵船は、すべて五十艘六十艘とことごとく鎖をもつて連ね、御命令どほり連環の排列を成し終りましたれば、いつ御戦端をおひらきあるとも、万端の手筈に狂ひはございません」
「よし」
すなはち曹操は、旗艦に上つて水軍を閲兵し、手分(てわけ)を定めた。
中央の船隊はすべて黄旗(クワウキ)をひるがへし、毛玠、于禁のゐる中軍の目印とする。
前列の船団は、すべて紅旗(コウキ)を檣頭(シヨウトウ)に掲げ、この一手の大将には、徐晃が選ばれる。
黒旗(コクキ)の船列は、呂虔の陣。
左備へには、翻々(ヘン/\)と青旗(セイキ)が並んで見える。これは楽進のひきゐる一船隊である。
反対の右側へは、すべて白旗(ビヤツキ)を植ゑ並べてゐた。その手の大将は夏侯淵。
また。
水陸の救応軍には、夏侯惇、曹洪の二陣がひかへ、交通守護軍、監戦使には、許褚、張遼などの宗徒(むねと)の輩(ともがら)が、さながら岸岸(ガンガン)の岩を重ねて大山をなすがごとく、水上から高地へかけて、固めに固めてゐた。
曹操は小手をかざして、
「今日まで、自分もずゐぶん大戦に臨んだが、まだその規模の大、軍備の充溢(ジウイツ)、これほどまで入念にかゝつた例(ため)しはない」
われながら旺(さかん)なる哉(かな)と思ひ、意中すでに呉を呑んでゐた。
「時は来た」
と、彼は、三軍に令した。
即日、この大艦隊は、呉へ向つて迫ることになつた。
三通の鼓(つゞみ)を合図に、水寨の門は三面にひらかれ、船列は一絲みだれず大江の中流へ出た。
この日、風浪天にしぶき、三江の船路は暴れ気味だつたが、連環の船と船とは、鎖のために、動揺の度が少なかつたので、士気は甚だふるひ、曹操も、
「龐統の献言はさすがであつた」
と、歓びをもらしてゐた。
だが、風浪が熄(や)まないので、全艦艇は江を下ることわづか数十里の烏林の湾口に碇泊(テイハク)した。この辺までも陸地は要塞たることもちろんである。そしてこゝまで来ると、呉の本営である南の岸は、すでに晴天の日なら指さし得るほどな彼方(あなた)にあつた。
「丞相。また不吉なりと、お気に障(さは)るやも知れませんが、ふと、この烈風を見て、心にかゝり出した事がありますが」
程昱がかう彼に云ひ出したのである。
「何が不安か」
と、曹操が聞くと、
「なるほど、鎖を以て、船の首尾を相(あひ)繫(つな)げばかういふ日にも、船の揺れは少(すくな)く、士卒の間に船暈(ふなよひ)も出ず、至極名案のやうですが、万一敵に火攻めの計を謀られたら、これは一大事を惹起するのではありますまいか」
「はゝゝゝ。案ずるをやめよ。時いま十一月。西北(いぬゐ)の風はふく季節だが、東南(たつみ)の風は吹くことはない。わが陣は、北岸にあり、呉は南にある。敵がもし火攻めなど行へば自ら火をかぶるやうなものではないか。——呉に人なしといへ、まさかそれほど気象や兵理に晦(くら)いものばかりでもあるまい」
「あ。なるほど」
諸将は、曹操の智慮にみな感服した。何といつても、彼に従ふ麾下の将士は、その大部分が、青州、冀州、徐州、燕州などの産れで、水軍に不馴れな者ばかりだつたから、この連環の計に不賛成を称(とな)へるものは少かつた。
かくて、風浪のやゝ鎮まるのを待つうちに、もと袁紹の大将で、いまは曹操に仕へてゐる燕(エン)の人、焦触、張南のふたりが、
「不肖、幼少から水には馴れてゐる者共です。ねがはくばわれ/\に二十艘の船をかし給へ、序戦の先陣を仰(おほせ)つけ下されたい」
と、自身から名乗つて出た。
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