吉川英治『三国志(新聞連載版)』(699)月烏賦(つきよがらすのうた)(二)
昭和16年(1941)12月28日(日)付掲載(12月27日(土)配達)
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この配信は国会図書館所蔵の『中外商業新報』を底本にしていますが、昭和16年(1941)12月28日(日)付夕刊は残念ながら缺号となっています。これに伴い、今回の配信は吉川英治『三国志』の「巻の八 赤壁の巻」(昭和17年[1942]5月発行)の当該箇所を底本としています(記号や漢字表記、振り仮名などについては適宜あらためています)。あらかじめご諒承ください。
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興は尽きない。曹操の多感多情はうごいて止まないらしい。彼はまた、上流夏口の方を望みながら云つた。
「呉を討つた後には、まだもう一方に片づけなければならんちんぴらがをる。玄徳、孔明の鼠輩(ソハイ)だ。いや、この大陸大江に拠つて生ける者としては、彼等の存在など鼠輩といふもおろか、目高のやうなものでしかあるまい。いはんやこの曹操の対手(あひて)としては」
酒に咽(むせ)んで、彼は手の杯(ハイ)を下に措き、その儘(まゝ)しばし口をつぐんだ。
皎々(カウ/\)の月も更け、夜気は際だつて冷々(ひえ/゛\)として来た。いかに意気のみはなほ青年であつても、身にこたへる寒気や、咳(しはぶき)には、彼も自己の人間たることを顧みずにはをられなかつたのであらう。ふと声を落して、沁々と語つた。
「予もことしは五十四歳になる。連年戦陣、連年制覇。わが魏もいつか尨大(バウダイ)になつたが、この身もいつか五十四齢。髪にも時々霜を見る年になつたよ。だが諸君、笑つてくれるな。呉に討入るときには、予にも一つの楽しみがある。それはそのむかし予と交りのあつた喬公の二(ニ)娘(ヂヤウ)を見ることだ」
こんな述懐を他人(ひと)に洩らしたことは珍しい。こよひの彼はよほど何(ど)うかしてゐたものと思はれる。すつかり興に浸つて心も寛(くつろ)ぎ、また彼自身の感傷を彼自身の詩情で霧のやうな酔心につゝんで思はず出たことばでもあらう。
喬家の二女といへば、呉で有名な美人。時来らば江北に迎へんと、曹操はかねて二娘の父なる人に云つたことがある。その後、呉の孫策、周瑜が二女を室に迎へたとも聞えてゐるが、彼はまだ未練を捨てきれなかつた。もし呉を平げたあかつきには、かの漳水(シヤウスヰ)の殿楼(うてな)——銅雀臺に二女を迎へて、共に花鳥風月を娯(たのし)みながら自分の英雄的生涯の終りを安らかにしたいものだと、今なお心に夢みてゐるのだつた。
諸将は、彼の述懐を聞くと、われらの丞相はなほ多分に青年なりと、口々に云つてしばしは笑ひもやまず、
「加盞々々(カサン/\)」
と彼の寿と健康を祝した。
時に帆檣(ハンシヨウ)のうへを、一羽の鴉(からす)が、月をかすめて飛んだ。曹操は左右に向つて、
「いま鴉の声が、南へ飛んで行きながら啼くのを聞いたが、この夜中に、何で啼くのか」
と、たづねた。
侍臣のひとりが、
「されば、月のあきらかなるまゝ、夜が暁(あ)けたかと思つて啼いたのでせう」
と、早速に答へた。
「さうか」
と曹操は、もう忘れてゐる。そしてやをら身を起すと、船の舳(へさき)に立つて、江の水に三杯の酒をそゝぎ、水神を祭つて、剣を撫(ブ)しながら、諸大将へ更に感慨をもらした。
「予や、この一剣をもつて、若年、黄巾の賊をやぶり、呂布をころし、袁術を亡し、更に袁紹を平げて、深く塞北(サクホク)(ママ)に軍馬をすゝめ、飜(ひるがへ)つて遼東を定む。いま天下に縦横し、こゝ江南に臨んで強大の呉を一挙に粉砕せんとし、感慨尽きないものがある。あゝ大丈夫の志、満腔(マンカウ)、歓喜の涙に濡る。こよひこの絶景に対して回顧の情、望呉の感、抑へがたいものがある。いま予自ら一詩を賦さん。汝等みな、これに和せよ」
彼は、即興の賦を、吟じ出した。諸将もそれに和して歌つた。
その詩のうちに、
月は明らかに星(ほし)稀(まれ)なり
烏鵲(ウジヤク)南へ飛ぶ
樹(ジユ)を遶(めぐ)ること三(サン)匝(サウ)
枝の依る可(べ)き無し
といふ詞があつた。
歌ひ終つた後、揚州の刺吏(シリ)(ママ)劉馥(リウフク)が、その詩句を不吉だと云つた。曹操は興をさまされて赫怒し、立ちどころに剣を抜いて劉馥を手討にしてしまつた。酔がさめてからそれと知つた彼はいたく沈痛な顔をしたが、その後悔も及ばず、子の劉煕(リウキ)に死骸を与へて厚く故郷へ葬らせた。
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なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

