吉川英治『三国志(新聞連載版)』(698)月烏賦(つきよがらすのうた)(一)
昭和16年(1941)12月27日(土)付掲載(12月26日(金)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 竹冠の友(二)
***************************************
都門を距(さ)ること幾千里。曹操の胸には、たえず留守の都を憶(おも)ふ不安があつた。
西涼の馬超、韓逐(カンチク)(ママ)の徒が、虚を衝(つ)いて、蜂起したと聞いたせつな、彼は一も二もなく
「たれか予に代つて、許都へ帰り、都府を守る者はないか。風聞はまだ風聞に過ぎず、事の実否は定かではないが、馳せ遅れては間にあはん。——誰(たれ)ぞ、すぐにでも打立てる面々は名乗つて出よ」
と、群臣を前にして云つた。
「拙者が赴きませう」
すゝんでその役目を買つて出たのは徐庶であつた。他の諸将は、この呉を前にしてのこの大戦に臨みながら、都へ帰るのは潔しとしないやうな面持で誰(たれ)も黙つてゐたところである。曹操は、快然とうなづいて
「徐庶か。よしつ、行け」
と迅速に直命した。
「かしこまりました。身不肖ながら、叛軍いかに気負ふとも、散関に斬り塞ぎ、要害に守り支へ、もし急変があればふたゝび速報申しあげます」
と、頼もしげに云ひ放ち、即刻三千餘騎の精兵をひきいて都へ馳せ上つた。
「まづ、彼が行けば」
と曹操は、一応安心して、更に、呉を打破ることへ思ひを急にした。
時。建安十一年(ママ)の冬十一月であつた。
風しづかに、波ゆるやかな夜なればと、曹操は、陸の陣地を一巡した後旗艦へ臨んだ。その大船の艫(ロ)には、「帥」の字を大きく書いた旗を立て、弩千張と黄鉞(クワウヱツ)銀鎗(ギンサウ)を舷側にたてならべ、彼は将臺に坐し、水陸の諸大将すべて一船に集まつて、旺(さかん)なる江上の宴(エン)を催した。
大江の水は、素絹(ソケン)を引いたやうに、月光にかすんでゐた。——南は遠く呉の柴桑山から樊山をのぞみ、北に烏林の峰、西の夏口の入江までが、杯(さかづき)の中にあるやうな心地だつた。
「あゝ楽しいかな、男児の業。眸は四遠の地景をほしいまゝにし、胸には天空の月影を汲む。俯して杯(さかづき)をとれば、滾々(コン/\)湧くところの吟醸あり、起(た)つて剣を放てば、すなはち呉の死命を制す……ぢや。呉は江南富饒の土地である。これをわが手に享(う)けるときは、かならず今日予とともに力を尽す諸将にも長くその富貴を頒(わ)け与へるであらう。諸員それ善戦せよ。この期を外して悔(くい)をのこすな」
曹操は、大杯をかさねながら、かう諸大将を激励し、意気虹の如くであつた。
諸将もみな心地よげに、
「われ/\が長き鍛錬を経、また、君の御恩沢に甘んじて来たのも一に今日に会して恥なからん為であります。何で、後(おく)れをとりませうや」
と、武者ぶるひしながら、各々杯の満をひいた。
酔ひが発すると、曹操は、久しく眠つてゐた彼らしい情感と熱とを、あり/\と眸に燃やしながら、
「みな、彼方を見ないか」
と、呉の国の水天を指さした。
「——あはれむべし、周瑜も魯粛も、天の時を知らず、運の尽るを知らぬ。彼等の陣中から密かに予に気脈を通じて来居る者すらある。さうしてすでに呉軍の内輪に心腹の病を呈してをるのだ。いかでわが水陸軍の一撃に完膚あらんや」
曹操は、なほ云つた。
「——これ、天の我を扶(たす)くるものである」
と、もちろん彼は士気を鼓舞激励するつもりで云つたのである。
が、そばにゐた荀攸(ジユンシウ)は、酔(よひ)をさまして
「丞相、々々。めつたに、左様なことは、お口にはしないものです」
と、そつと袖をひいて諫めた。
曹操は、呵々と、肩をゆすぶつて
「この一船中にあるものは、みな予の股肱(ココウ)の臣たらざるはない。舷外(ゲンガイ)は滔々の水、どこに異端の耳があらうぞ」
と、気にとめる風もなかつた。
***************************************
次回 → 月烏賦(二)(2025年12月27日(土)18時配信)

