吉川英治『三国志(新聞連載版)』(697)竹冠の友(二)
昭和16年(1941)12月25日(木)付掲載(12月24日(水)配達)
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彼は観念の眼を閉ぢた。
万事休す——徒(いたづ)らに〔もがく〕愚をやめて龐統は相手の男へ云つた。
「いつたい何者だ、おぬしは?曹操の部下か」
「もとよりの事」
と男は、彼のからだを後から羽(は)交(が)ひ締めにした儘(まゝ)、
「——この声を忘れたか。この俺を見わすれたか」
と重ねて云つた。
「何?忘れたかとは」
「徐庶だよ、俺は」
「えつ、徐庶だと」
「鏡水先生(ママ)の門人徐元直。貴公とは、司馬徽が門で、石韜、崔州平、諸葛亮などの輩(ともがら)と、むかし度々お目にかゝつてゐる筈——」
「やあ、あの徐君か」
と、龐統はいよ/\驚いて、彼の両手から、その体を解かれても、なほ茫然立ち竦(すく)んで、対手のすがたを見まもりながら、
「徐庶々々。君ならば、この龐統の意中は知つてゐるはずだ。わが計を憐れめ。もし貴公がこゝでものを云へば、この龐統の一命はともかく、呉の国八十一州の百姓庶民が、魏軍の馬蹄に蹂躙される憂目に墜ちるのだ——億兆の呉民のために、見のがしてくれ」
と、哀願した。
すると、徐庶は、
「それはそつちの云ふことでせう。魏軍の側に立つていへば、呉の民は救はれるか知らぬが、あなたをこゝで見のがせば、味方八十三万の人馬はこと/゛\く焼殺される。殲滅的な憂目に遭ふ。——豈(あに)、これも憐れと見ずにはをられまいが」
「うゝむ。……こゝで君に見つかつたのは天運だ。いづれともするがいゝ。元々、自分がこれへ来たのは、一命すらない覚悟のうへだ。いざ、心のまゝに、殺すとも、曹操の前へ曳いて行くともいたせ」
「あゝさすがは鳳雛先生」
と徐庶は、その顔色も全身の構へも、平常の磊落(ライラク)な彼に回つて、
「もう、御心配は無用」
と、微笑した。そして、
「実を申せば、以前、それがしは新野に於(おい)て、劉皇叔と主従のちぎりを結び、その折うけた御厚恩は今もつて忘れ難く、身は曹操の陣へおいても、朝暮、胸に銘記ゐたしてをる。——たゞこれ一人の老母を曹操にとらはれた為、やむなくその麾下に留まつてゐたものの、今はその老母も相果てゝ此(この)世(よ)には居りません。……が皇叔とお別れの折、たとひ曹操の下へ去るとも、一生のあひだ、他人の為には、決して計を謀らずと、かたくお約束いたして来た。故に、それがしこの陣にあつて、先頃から曹操の許へ、密かに往来ある呉人の様子を窺つて、はゝあ、さてはと、独り心のうちで頷(うなづ)いてはゐたが、誰(たれ)にも、その裏に裏のあることは語らずにゐたのです」
と、初めて本心を打明け、龐統の驚きをなだめたが、さて困つたやうに、その後で相談した。
「……ですから、拙者は、何も知らない顔をしてゐるが、やがて貴兄が呉へ回つて、連環の計、火攻の計など、一挙にその功を挙ぐるにいたれば、当然、かくいふ徐庶が、魏の陣中にあつて、焼殺されてしまふ。何とか、これを未然に遁(のが)れる工夫はないものでせうか」
「それはいと易い事だ」
と、龐統は、耳に口をよせて、何事かさゝやいた。
「なるほど、名案!」
徐庶は、手を拍(う)つた。それを機(しほ)に、龐統は舟へとび乗る。——かくて二人は、人知れず、水と陸とに、別れ去つた。
程なく、曹操の陣中に、誰からともなく、かういふ風説が立ち初めた。それは、
「西涼の馬超(バテウ)が、韓逐(ママ)と共に、大軍を催して、叛旗をひるがへした。都の留守を窺つて、今や刻々、許都をさして進撃してゐる……」
といふ寔(まこと)しやかな噂で、遠征久しき人心に多大な衝動を与へた。
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次回 → 月烏賦(つきよがらすのうた)(一)(2025年12月26日(金)18時配信)
昭和16年(1941)12月26日(金)付の夕刊は休刊でした。これに伴い明日の配信はありません。

