吉川英治『三国志(新聞連載版)』(695)鳳雛・巣を出(い)づ(五)
昭和16年(1941)12月23日(火)付掲載(12月22日(月)配達)
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龐統の言は、たしかに曹操の胸中の秘を射たものであつた。
病人の続出は、いま曹操の悩みであつた。その対策、原因について軍中やかましい問題となつてゐる。
「どうしたらよいでせう。又、何かよい方法はありませんか。願はくば御教示ありたいが」
曹操は初め、驚きもし、狼狽気味でもあつたが、つひに打割つてかう云つた。
龐統は、さもあらんと、うなづき顔に、
「布陣兵法の妙は、水も洩らさぬ御配備ですが、惜しいかな、たゞ一つ缺けてゐることがある。原因はそれです」
「布陣と病人の続出とに、何か関聯がありますか」
「あります。大いにあります。その一短を除きさへすれば怖らく一兵たりとも病人はなくなるでせう」
「謹んでお教へに従はう。多くの医者も、薬は投じてもその原因に至つては、たゞ風土の異なるためといふので、〔とん〕と解らない」
「北兵中国の兵は、みな水に馴れず、いま大江に船を浮かべ、久しく土を踏まず、風浪雨荒のたび毎(ごと)に、気を労(わづ)らひ身を疲らす。ために食すゝまず、血(ち)環(めぐ)ること遅(チ)、凝(こ)つて病となる。——これを治すには、兵をこと/゛\く上げて土になづますに如(し)くはありませんが、軍船一日も人を缺くべからずです。故に、一策をほどこし、布陣を革(あらた)めるの要ありといふものです。まづ大小の船をのこらず風浪(フウラウ)少(すくな)き湾口のうちに集結させ、船体の巨(おほ)きさに準じて、これを縦横に組み、大艦三十列、中船五十列、小船はその便(ベン)に応じ、船と船との首尾には、鉄の鎖をもつて、固くこれを繫(つな)ぎ、環(たま)をもつて連ね、また太綱(ふとづな)をもつて扶けなどして、交互に渡り橋を架けわたし、その上を自由に往来なせば、諸船の人々、馬をすら、平地を行くが如く意の儘(まゝ)に歩けませう。しかも大風(タイフウ)搏浪(ハクラウ)の荒日(クワウジツ)でも、諸船の動揺は至つて少(すくな)く、また軍務は平易に運び、兵気は軽快に働けますから、自然、病に臥すものはなくなりませう」
「なるほど、先生の大説、思ひあたること尠(すくな)くありません」
と、曹操は、席を下つて謝した。龐統は、さり気なく
「いや、それも私だけの浅見かもしれません。よく原因を探究し、さらに賢考なされたがよい。お味方に病者の多いなどは、まだ以て、呉のはうでは覚(さと)らぬこと。少しも早く適当な御処置を執りおかれたら、かならず他日呉を打(うち)敗ることができませう」
「さうだ、この事が敵へもれては……」と、曹操も、急を要すと思つたか、たちまち彼の言を容れて、次の日、自身中軍から埠頭へ出ると、諸将を呼んで、多くの鍛冶をあつめ、連環の鎖、大釘など、夜を日についで無数に製(つく)らせた。
龐統は、悠々客となりながら、その様子を窺つて、内心〔ほくそ〕笑んでゐたが、一日、曹操と打(うち)解けて、また軍事を談じたとき、あらためてかう云つた。
「多年の宿志を達して、いまこそ私は名君にめぐり会つたこゝちがしてゐます。粉骨砕身、この上にも不才を傾けて忠節を誓つてをります。ひそかに思ふに、呉の諸将は、みな周瑜に心から服してゐるのは少(すくな)いかに考へられます。周都督をうらんで、機(しほ)もあればと、反(かへ)り忠を目企(もくろ)むもの、主(おも)なる大将だけでも、五指に餘ります。それがしが参つて三寸不爛の舌をふるひ、彼等を説かば、忽ち、旗を反(かへ)して、丞相の下へ降(くだ)つて来ませう。然る後、周瑜を生け捕り、次いで玄徳を平げることが急務です。——呉も呉ですが、玄徳こそは侮れない敵とお考へにはなりませんか」
そのことばは、大いに曹操の肯綮(コウケイ)に中(あた)つたらしい。彼は、龐統がさう云ひ出したのを幸に、
「いちど呉へ回(かへ)つて、同志を語らひ、ひそかに計を施して給はらぬか。もし成功なせば、貴下を三公に封(ホウ)ずるであらう」
と、云つた。
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