吉川英治『三国志(新聞連載版)』(694)鳳雛・巣を出(い)づ(四)
昭和16年(1941)12月21日(日)付掲載(12月20日(土)配達)
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舟を拾つて、二人は江北へ急いだ。やがて魏軍の要塞に着いてからは、一切、蔣幹の斡旋に依つた。
有名なる襄陽の鳳雛——龐統来れり、と聞いて、曹操のよろこび方は一通りではなかつた。
まづ、賓主の座をわけて、
「珍客には、どうして急に、予の陣をお訪ね下されたか」
と、曹操は下へも置かなかつた龐統も、この対面を衷心から歓んで見せながら
「私をして、こゝに到らしめたものは、私の意志と云ふよりは、丞相が私を引きつけ給ふたものです。よく士を敬ひ、賢言を用ひ、稀代の名将と、多年御高名を慕ふのみでしたが、今日、幹兄のお導きに依つて、拝顔の栄を得たことは、生涯忘れ得ない歓びです」
曹操は、すつかり打(うち)解けて、蔣幹のてがらを賞し、酒宴に明けた翌る日、共に馬を曳かせて、一丘へ登つて行つた。
けだし曹操の心は、龐統の口から自己の布陣に就(つい)て、忌憚なき批評を聞かうといふところにあつたらしい。
だが、龐統は、
「——沿岸百里の陣、山にそひ、林に拠り、大江をひかへてよく水利を生かし、陣々、相顧み相固め、出入自ら門あり、進退曲折の妙、古(いにしへ)の孫子呉子が出て来ても、これ以上の布陣はできますまい」
と、激賞してばかりゐるので、曹操は却(かへ)つて物足らなく思ひ、
「どうか先生の含蓄をもつて、不備な点は、遠慮なく指摘してもらひたい」
と、云つたが、龐統は、かぶりを振つて、
「決して、美辞甘言を呈し、詐(いつは)つて褒めるわけではありません。いかなる兵家の蘊奥(ウンオウ)を傾けても、この江岸一帯の陣容から缺点を捜し出すことはできないでせう」
曹操は悉(こと/゛\)くよろこんで、更に、彼を誘つて、丘を降(くだ)り、今度は諸所の水寨港門や大小の舟行など見せて歩いた。
そして、江上に浮かぶ艨艟(モウドウ)の戦艦二十四座の船陣を、誇らしげに指さして、
「どうですか、わが水上の城郭は」
と、意見を求めた。
噫(あゝ)——と龐統は感極まつたもののごとく、思はず掌(て)を打つて、
「丞相がよく兵を用ひられるといふことは、夙(つと)に隠れないことですが、水軍の配備にかけても、かく迄(まで)とは、夢想もしてゐませんでした。——憐(あはれ)むべし、周瑜は、江上の戦ひこそ、われ以外に人なしと慢じてゐますから、つひに滅亡する日までは、あの驕慢な妄想は醒めますまい」
やがて立(たち)帰ると、曹操は営中の善美を凝して、ふたゝび歓待の宴に彼をとらへた。そして夜もすがら孫呉の兵略を談じ、また古今の史に照らして諸家の陣法を評したりなど、興尽き夜の更(ふ)くるも知らなかつた。
「……ちよつと、失礼します」
龐統はその間に、ちよい/\中坐して室外に出ては、また帰つて席に着き、話しつゞけてゐた。
「ちと、お顔色がわるいやうだが?どうかなされたか」
「何。大したことはありません」
「でも、どこやら勝(すぐ)れぬやうに見うけらるゝが」
「舟旅の疲れです。それがしなど性来水に弱いので四、五日も江上を揺られてくると、いつも後で甚しく疲労します。……いまも実はちと嘔吐を催して来ましたので」
「それはいかん、医者を呼ぶから診せたがいゝ」
「御陣中には、名医がたくさん居られるでせう。おねがひします」
「医者が多く居るだらうとは、どうしてお察しになつたか」
「丞相の将兵は、大半以上、北国の産。大江の水土や船上の生活に馴れないものばかりでせう。それをあのやうになすつておいては、この龐統同様、奇病に罹(かゝ)つて、身心ともにつかれ果て、いざ合戦の際にも、その全能力をふるひ出すことができますまい」
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次回 → 鳳雛・巣を出づ(五)(2025年12月22日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

