吉川英治『三国志(新聞連載版)』(691)鳳雛・巣を出(い)づ(一)
昭和16年(1941)12月18日(木)付掲載(12月17日(水)配達)
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いまの世の孫子呉子は我を措(お)いてはなし——とひそかに自負してゐる曹操である。一片の書簡を見るにも実に緻密冷静だつた。蔡和、蔡仲はもとより自分の腹心の者だし、自分の息をかけて呉へ密偵に入れておいたものであるが、疑ひないその二人から来た書面に対してすら慎重な検討を怠らず、群臣をあつめて、内容の是非を評議にかけた。
「……蔡兄弟からも、さきに呉へ帰つた闞沢からも、かやうに申し越して来たが、ちと、はなしが巧(うま)過ぎる嫌ひもある。さて、これへの対策は、どうしたものか」
彼の諮問に答へて、諸大将からもそれ/゛\意見が出たが、その中で、例の蔣幹がすゝんで云つた。
「面(おもて)を冒(おか)して、もう一度おねがひ申します。不肖、さきに御命(ゴメイ)をうけて、呉へ使し、周瑜を説いて降さんと、種々肝胆をくだきましたが、悉(こと/゛\)く、失敗に終り、何の功もなく立帰り、内心、甚だ羞ぢてをる次第でありますが——いまふたたび一命を抛(なげう)つ気で、呉へ渡り、蔡兄弟や闞沢の申越しが、真実か否かを、たしかめて参るならば、いさゝか前の罪を償(つぐ)なふことが出来るやうに存じられます。もし又、今度も何の功も立てずに戻つたら、軍法のお示しを受けるとも決してお恨みには思ひません」
曹操はいづれにせよ、遽(にはか)に決定できない大事と、深く要心してゐたので
「それも一策だ」
と、蔣幹の乞ひを容れた。
蔣幹は、小舟に乗つて、以前のごとく、飄々たる一道士を装ひ、呉へ上陸(あが)つた。
そのとき呉の中軍には、彼より先に、ひとりの賓客が来て、都督周瑜と話しこんでゐた。
襄陽の名士龐徳公の甥で、龐統(ホウトウ)といふ人物である。
龐徳公といへば荊州で知らないものはない名望家であり、かの水鏡先生司馬徽ですら、その門には師礼をとつてゐた。
また、その司馬徽が、常に自分の門人や友人たちに、臥龍・鳳雛といふことをよく云つてゐたが、その臥龍とは、孔明をさし、鳳雛とは、龐徳公の甥の——龐統をさすものであることは、知る人ぞ知る、一部人士のあひだでは隠れもないことだつた。
それほどに、司馬徽が人物を見こんでゐた者であるのに、
(臥龍は世に出たが、鳳雛はまだ出ないのは何故か?)
と、一部では、疑問に思はれてゐた。
けふ、呉の中軍に、ぶらりと来てゐた客は、その龐統だつた。龐統は、孔明より二つ年上に過ぎないから、その高名にくらべては、年も存外若かつた。
「先生には、近頃、つい、この近くの山にお住ひだそうですな」
「荊州、襄陽の滅びて後、しばし山林に一庵をむすんでゐます」
「呉にお力をかし賜はらんか、幕賓として、粗略にはしませんが」
「もとより曹軍は荊州の故国を蹂躙(ジウリン)した敵。あなたからお頼みなくとも呉を助けずにをられません」
「百万のお味方と感謝します。——が、いかにせん味方は寡兵、どうしたら彼の大軍を撃破できませうか」
「火計一策です」
「えつ、火攻め。先生もさうお考へになられますか」
「たゞし渺々(ベウ/\)たる大江の上、一艘の船に火がかゝらば、残餘の船はたちまち四方に散開する。——故に、火攻めの計を用ふるには、まずその前に方術(てだて)をめぐらし、曹軍の兵船をのこらず一つ所にあつめて、鎖(くさり)を以てこれを封縛せしめる必要がある」
「はゝあ、そんな方術(てだて)がありませうか」
「連環(れんかん)の計といひます」
「曹操とても、兵学に通じてをるもの。いかで左様な計略に陥らう。お考へは至妙なりといへど、おそらく、鳥網(テウマウ)精緻にして一(イツ)鳥(テウ)かゝらず、獲物のはうでその策(て)には乗りますまい」
——かう話してゐるところへ、江北の蔣幹が、また訪ねて来たと、部下の者が取次いで来たのだつた。
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