吉川英治『三国志(新聞連載版)』(684)風を呼ぶ杖(三)
昭和16年(1941)12月10日(水)付掲載(12月9日(火)配達)
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「その奇策を行ふには、呉からも曹操の陣へ、詐(いつは)りの降人を送りこむ必要がある。……が、恨むらくは、その人がありません。適当な人がない」
周瑜が嘆息をもらすと、
「なぜ、ないと云はるゝか」
黄蓋は、せき込むやうに、身をすゝめて、詰問(なじ)つた。
「呉国、建つて以来、こゝに三代。それしきのお役に立つ人もないとは、周都督のお眼がほそい。——こゝに、不肖ながら、黄蓋もをるつもりでござるに」
「えつ。……では御老臺が、進んでその難に赴いて下さるとか」
「国祖孫堅将軍以来、重恩をかうむつて、いま三代の君に仕へ奉るこの老骨。国の為とあれば、たとひ肝脳地に塗(まみ)るとも、恨みはない。いや本望至極でござる」
「あなたにその御勇気があれば、わが国の大幸といふものです。……では」
周瑜は、あたりを見まはした。陣中(シンチユウ)寂(セキ)として、こゝの一(イツ)穂(スヰ)の燈火(ともしび)のほか揺らぐ人影もなかつた。
何事か、二人は諜(しめ)し合せて、暁に立ち別れた。周瑜は、一睡してさめると、直(たゞち)に、中軍に立ち出で、鼓手(コシユ)に命じて、諸人を集めた。
孔明も来て、陣座のかたわらに床几(シヤウギ)をおく。周瑜は、命を下して、
「近く、敵に向つて、わが呉はいよいよ大行動に移るであらう。諸部隊、諸将は、よろしくその心得あつて、各兵船に、約三ケ月間の兵粮を積みこんでおけ」
と命じた。
すると、先手の部隊から、大将黄蓋がすゝみ出て云つた。
「無用な御命令。いま、幾月の兵糧を用意せよと仰せられたか」
「三月分と申したのだが、それがどうした」
「三月はおろか、たとひ三十ケ月の兵糧を積んだところで無駄な業(わざ)、いかでか、曹操の大軍を破り得よう」
周瑜は、勃然と怒つて、
「やあ、まだ一戦も交じへぬに、味方の行動に先だつて不吉なことばを!武士共、その老(おい)ぼれを引つ縛(くゝ)れ」
黄蓋も眦(まなじり)を裂いて、
「だまれ周瑜。汝、日頃より君寵をかさに着て、しかも今日まで、碌々(ロク/\)と無策にありながら、われら三代の宿将にも議を諮らず、必勝の的(あて)もなき命を俄(にはか)に発したとて、何で唯々諾々と服従できようか。——いたづらに兵を損ずるのみだわ」
「ええ、云はしておけば、みだりに舌をうごかして、兵の心を惑はす曲(し)れ者め。誓つて、その首を刎ね落さずんば、何を以て、軍律を正し得ようか。——これつ、なぜその老(おい)ぼれに物を云はしておくか」
「ひかへろ、周瑜、汝ごときは、精々、先代以来の臣ではないか。国祖以来三代の功臣たる此方(こなた)に、縄を打てるものなら打つてみよ」
「斬れつ。——彼奴(きやつ)を!」
面(おもて)に朱をそゝいで、周瑜の指は、閻王(ヱンワウ)が亡者を指さすやうに、左右へ叱咤した。
「あつ、お待ち下さい」
一方の大将甘寧が、それへ転び出て、黄蓋に代つて罪を詫びた。
しかし黄蓋も黙らないし、周瑜の怒りもしづまらなかつた。果ては、甘寧まで、その間から刎ね飛ばされてしまふ。
「すは、一大事」
と諸大将も、今はみな色を失つて、交々(こも/゛\)に仲裁に立つた。いやともかく大都督周瑜に対して抗辯はよろしくないと、諸人地に額(ひたひ)をすりつけて、
「国の功臣、それに年も年、何とぞ憐みを垂れたまへ」
と、哀願した。
周瑜はなほ肩で大息をついてゐたが、
「人々がそれほど迄(まで)に申すなれば、一時、命はあづけておく。しかし軍の大法は正さずにはおけん。百(ヒヤク)杖(ヂヤウ)の刑を加へて、陣中に謹慎を申しつける」
と、云ひ放つた。
即ち、獄卒に命じて杖(ヂヤウ)百(ヒヤク)打(ダ)を加へることになつた。黄蓋はたちまち衣裳甲冑を剝(は)ぎとられ、仮借もなく、棍棒を振りあげて臨む獄卒の眼の下に、無残、老ひ細つた肉体を、しかも衆人監視の中に曝(さら)された。
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