吉川英治『三国志(新聞連載版)』(683)風を呼ぶ杖(二)
昭和16年(1941)12月9日(火)付掲載(12月8日(月)配達)
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悄然と、二人は頭を垂れて、落涙を装ひながら答へた。
「われわれ両名は、曹操のために殺された魏の水軍司令、蔡瑁の甥にございます。——叔父の瑁は、罪もなく討たれたものゝ、故主の成敗を、悪しざまにいい呪へば、これも反覆常なしと、人は眉をひそめませう。家父とも頼む叔父に死なれ、主と仰ぐ人には忌まれ疑はれ、寄るに陣地なく、遂に江北を脱してこれへ参りましたもの。——願はくばそれがし両名の寸命を用ひて、良き死(しに)場所をお与へください」
周瑜は、即座に、
「よろしい。誓つて、呉のために尽す気ならば、今日以後、わが陣中に留まるがいゝ」
と、これを甘寧の配下に附属させた。
ふたりは、心中に、
(仕(し)済(す)ましたり)
と、舌を吐きながらも、表面はいと悄々(しを/\)と、恩を謝して退出した。
魯粛は、そのあとで、
「都督、大丈夫ですか」
と、疑はしげに、彼の心事を確かめた。
周瑜は、得々として
「さしも忠臣といはれた蔡瑁なのに、罪もなく殺されては、彼の親身たるもの、恨むまいとしても、恨まずにはをられまい。曹操を離れて、われに来たのは、蓋(けだ)し、南風が吹けば南岸へ水禽(みづとり)が寄つてくるのと同じ理である。何を疑ふ餘地があらう」と笑ふのみで、省みる風もなかつた。
魯粛は、その日、例の船中で孔明に会つたので、周瑜の軽忽な処置を、嘆息して語つた。
すると、孔明もまた、にやにや笑つてばかりゐる。何故、笑ひ給ふかと、魯粛が〔なじる〕と、
「餘りに要らぬ御心配をしてをられる故、つい笑ひがこぼれたのです」
と、孔明は初めて、周瑜の心に、計(はかり)のあることに違ひないと、自分の考へを解いて聞かせた。
「蔡和、蔡仲の降参は、あきらかに詐術(いつはり)です。何となれば、妻子は江北に残してをる。周都督も、それはすぐ観破されたに相違ないが、互ひに江(カウ)を隔てゝ、両軍とも戦ひによき手懸りもない所——これは絶好の囮(おとり)と、わざと、彼の計に乗つた顔して、実はこちらの計略に用ひようと深く企(たく)んでをられるものと考へられる」
「あゝ、なるほど!」
「どうです、御自身でも笑ひたくなりはしませんか」
「いや笑へません。どうしてそれがしは、かう人の心を見るに鈍(ドン)なのでせう。むしろ己れの不敏に哀れを催します」
と、深く悟つて帰つた。
その夜、呉陣第一の老将黄蓋が、先手の陣からそつと本営を訪ねて来て、周瑜と密談してゐた。
黄蓋は孫堅以来、三代呉に仕へて来た功臣である。白雪(ハクセツ)の眉、㷀㷀(ケイケイ)たる眸、なほ壮者をしのぐものがあつた。
「深夜、お訪ねしたのは、餘の儀でもないが、かく対陣の長びくうちに、曹操はいよ/\北岸の要寨をかため、その舟手の勢は、日々調練を積んで、いよ/\彼の精鋭は強化されるばかりとならう。しかのみならず、彼は大軍、味方は寡兵、これを以て、彼を討つには火計のほかに兵術はないと思ふ。……周都督、火攻めはどうぢや、火術の計は」
「しつツ」と周瑜は、老将の激し込む声音(こわね)を制して、
「おしづかに。御老臺。あなたは一体、誰(たれ)からそんな事を教へられましたか」
「誰(たれ)から?……馬鹿を云はしやい。わしの本心から出た信念ぢや」
「あゝ、ではやはり、御老臺の工夫とも一致したか。——ではお打明けするが、実は、降人の蔡仲、蔡和の両名は、詐(いつは)つて呉へ投じて来たが、それを承知で、味方のうちに留めてあります。敵の謀略の裏を搔(か)いて、こちらの謀略を行はんためにです」
「ふむ。それは妙だ。してその降人を、都督には、どう用ひて、曹操の裏を搔くおつもりか?……」
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