吉川英治『三国志(新聞連載版)』(682)風を呼ぶ杖(一)
昭和16年(1941)12月7日(日)付掲載(12月6日(土)配達)
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このところ魏軍江北の陣地は、士気すこぶる昂(あが)らなかつた。
うま/\と孔明の計(はかりごと)に乗つて、十数万のむだ矢を射、大いに敵をして快哉(クワイサイ)を叫ばせてゐるといふ甚だ不愉快な事実が、後になつて知れ渡つて来たからである。
「呉には今、孔明があり、周瑜もかくれなき名将。殊(こと)に、大江を隔てゝ、彼の内情を知る便りもありません。ひとつお味方のうちから人を選んで、呉軍の中へ、埋伏の毒を嚥(の)ませてはいかがでせう」
謀将の荀攸(ジユンシウ)は、苦念の末、かういふ一策を、曹操へすゝめた。
埋伏の毒を嚥ます——といふ意味は、要するに、甘いものに包んだ劇毒を嚥み下させて、敵の体内から敵を亡さうといふ案である。
「さあ。それは最上の計だが、しかし兵法では最も難しい謀略といはれてをるもの。——まづ第一にその人選だが、誰(たれ)か、よい適任者がをるだらうか」
曹操のことばに、荀攸(ジユンシウ)は、考へを打明けた。
「先頃、丞相が御成敗になつた蔡瑁の甥に、蔡和(サイクワ)、蔡仲(サイチユウ)といふ者がゐます。叔父(をぢ)蔡瑁がお手討になつた為、いま謹慎中の身でありますが」
「むゝ。さだめし予を恨んでをるだらうな」
「そこです。当然(タウゼン)誰(たれ)もがひとしく、さう考へるであらう所こそ、この策謀の狙ひどころであり、また重要な役割を果(はた)しませう」
「では、蔡和、蔡仲のふたりを用ひて、呉へ入れるといふのか」
「さればで。——まづ丞相が二人を召されて、よく彼等の心をなだめ、また利と栄達を以て励まし、江南へ放つて、呉軍へ騙(いつは)つて降伏させます。——敵はかならず信じます。なぜなら、丞相に殺された蔡瑁の甥ですから」
「しかし、却(かへ)つて、それをよい機(しほ)に、ほんとに呉へ降つて、味方の不利を計りはしまいか。予を、叔父の讐(かたき)と恨んで」
「大丈夫です。荊州には、蔡和、蔡仲の妻子が残つてゐます。何で、丞相に弓が引けませう」
「あ。成程」
曹操はうなづいて、荀攸の心にまかせた。翌る日、荀攸は、謹慎中の二人を訪うて、まづ赦免の命を伝へて恩を売り、やがて伴つて曹操の前へ出た。
曹操は二人に酒をすゝめ、将来を励まして、
「どうだ、叔父の汚名をそゝぐ気で、ひとつ大功を立てゝみぬか」
と、計画を話してみた。
「やりませう」
「進んで御命を拝します」
二人とも非常な意気込を示した。曹操は満足して、この事が成功したあかつきには、恩賞はもちろん末長く功臣として重用するであらうと約した。
「お心を安んじて下さい。かならず周瑜、孔明の首を土産に帰つて来ます」
大言をのこして、蔡兄弟は、次の日出発した。もちろん脱陣の偽装をつくつてゆく必要がある。船数艘に、部下の兵五百ばかり乗せ、取る物も取り敢(あへ)ず、命がけで脱走して来たといふ風を様々な形でそれに満載した。
帆は風を孕(はら)み、水はこの数艘を送つて、呉の北岸へ送つた。——折ふし呉の大都督周瑜は、軍中を巡察中だつたが、いま敵の陣から、二人の将が、兵五百をつれて、投降して来たと聞くと、明らかに喜色をあらはして、
「すぐ召(めし)つれて来い」
と、営中に待ちかまへてゐた。
やがて蔡和、蔡仲はきびしく護衛されながら引かれて来た。周瑜はまづ二人へたづねた。
「足下(ソクカ)たちは、何故、曹操の下を脱して、わが呉へ降つて来たか。武門の人間にも似合はん不徳な行為ではないか」
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次回 → 風を呼ぶ杖(二)(2025年12月8日(月)18時配信)
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