吉川英治『三国志(新聞連載版)』(679)覆面の船団(一)
昭和16年(1941)12月4日(木)付掲載(12月3日(水)配達)
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夜靄(よもや)は深くたれこめてゐた。二十餘艘の兵船は、各々、纜(ともづな)から纜を一聯に長くつなぎ合ひ、徐々と北方へ向つて、溯航(ソカウ)してゐた。
「とんと、解りません」
「何がです」
「この船団の目的と、先生の心持が」
「は、は、は。今に自然お解りになりますよ」
先頭の一船のうちには、孔明と魯粛が、細い燈火の下に、酒を酌み交(かは)してゐた。
微かな火光も洩らすまいと、船窓にも入口にも帳(とばり)を垂れてゐるが、時折どうと船体を搏(う)つ波音に灯も揺れ、杯の酒も揺れる。
「まるでこれは、覆面の船ですな、二十餘艘すべて、藁と布で、隈なく船体を覆ひかくしたところは」
「覆面の船。なるほど、覆面の船とは、おもしろい仰せではある」
「どうお用ひになる気ですか、一体、これを」
魯粛はしきりに知りたがつて訊ねたが、孔明はたゞ、
「この深い夜靄が霽(は)れたら解りませう。まあ、御心配なく」
と、ばかりで、杯を舐めては、独り楽しんでゐるかのやうであつた。
然し、魯粛としては、気が気ではなかつた。舳艫(じくろ)を連ねて北進して行く船は、行けども/\溯(さかのぼ)つてゐる。
「もしやこの儘(まゝ)、二十餘艘の軍船と兵と、この魯粛の身を土産に、夏口まで行つてしまふつもりではあるまいか?」
などゝ孔明の肚を疑つて、魯粛はまつたく安き思ひもしなかつた。
その夜の靄は南岸の三江地方だけでなく、江北一帯もまつたく深い晦冥(クワイメイ)につゝまれて、陣々の篝火(かゞりび)すら朧(おぼろ)なほどだつたから、
「かゝる夜こそは、油断がならぬ。諸陣とも、一倍怠るなよ」
と、曹操は宵のうちから、特に江岸の警備に対して、厳令を出してゐた。
彼のあたまには始終、
(呉兵は水上の戦によく馴れてゐる。それに比して、わが魏の北兵は、演習が足りてゐない)
といふ戒心があつた。
敵の数十倍もある大軍を擁しながらも、なお驕(おご)らず、深く戒めてゐるところは、さすがに曹操であり、驕慢が身を亡ぼした沢山な先輩や前人の例を見てゐるので、その轍を踏むまいと、常に反省してゐることもよく窺(うかゞ)はれる。
——で、その夜の如きも、部下を督励したばかりでなく、彼自身も深更まで寝てゐなかつた。
すると、案の定、夜も四更に近い頃、江上遠く、水寨のあたりで、喊(とき)の声がする。
「すは!」
と、彼と共に、不寝(ねず)の番をしてゐた徐晃、張遼の二将が、すぐ本陣から様子を見に駆け出してみると、呉の船団が、突忽と、夜靄を破つて現れ、今し水寨へ迫つて来た——との事に、張遼、徐晃は驚いて、
「呉軍の夜襲です」
と、あわたゞしく曹操へ知らせた。
「あわてるに及ばぬ」
豫(かね)て期(ゴ)したる事と、曹操は自身出馬して、江岸の陣地へ臨み、張遼、徐晃をして、すぐさま各射手三千人の弩弓(ドキウ)隊を、三団に作らせ、水上の防寨や望楼に拠らせて一斉に射させた。
また江岸にも、弩弓手を立て並べ、総勢一万餘の弓弦(ゆみづる)が、一度に唸(うな)りを切ったので、矢は雨か疾風(はやて)かとばかり、朧な敵の船影を目標に降りかゝつた。
けれど何分にも、晦(くら)さは晦し、靄の遠くに、時折、喊声(かんせい)がとゞろくのを聞くなかりで、曹操のゐる所からは、戦況のほどもはつきり知れなかつた。
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次回 → 覆面の船団(二)(2025年12月4日(木)18時配信)

