吉川英治『三国志(新聞連載版)』(672)群英の会(二)
昭和16年(1941)11月26日(水)付掲載(11月25日(火)配達)
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星は暗く。夜は更けてゐる。
船は、石の碇(いかり)を下ろし、ひそかに魏の要塞を、偵察してゐた。
水軍の法にくわしい周瑜も、四十二座の水門から寨柵(サイサク)、大小の船列、隈(くま)なく見わたして、
「いつたい、こんな構想と布陣は、誰が考察したのか」
と、舌を巻いて驚いた。
魯粛は、その迂遠を嘲(わら)つて、
「もちろん荊州降参の大将、蔡瑁、張允の二人です。彼等の智嚢は、決して見(み)縊(くび)つたものではありません」
と、云つた。
周瑜は、舌(した)打(うち)して、
「不覚々々。今日まで、曹操の方には、水軍の妙に通じた者はないと思つてゐたが、これはおれの誤認だつた。蔡瑁、張允を殺してしまはないうちは、水上の戦ひだからといつて、滅多に安心はできないぞ」
語りながら、なお船楼の幕(とばり)のうちで、酒を酌み、また碇を移し、彼方(あなた)此方(こなた)、夜明けまではと、探つてゐた。
——と、早くも、魏の監視船から、この事は、曹操の耳に急達されてゐた。何の猶豫やあらんである。それ捕擒(とりこ)にせよとばかり、水寨の内から一陣の船手が追ひかけて来た。
けれど、周瑜の船は、逸(いち)早く逃げてしまつた。水流にまかせて下るので船脚は著るしく早い。遂に、取逃がしたと聞いて、翌朝、曹操はひどく鋭気を削(そ)がれてゐた。
「敵に、陣中を見すかされては、またこの構想を一変せねばならん。こんな虚があるやうな事で、いつの日か、呉を破ることができるものぞ」
すると、侍列の中から、
「丞相、嗟嘆(サタン)には及びません。てまへが周瑜を説いて、お味方に加へてみせます」
と、云つた者がある。
人々は、その大言に驚いて、誰(たれ)かとみると、帳下の幕賓、蔣幹(シヤウカン)、字(あざな)は子翼(シヨク)といふものだつた。
「おう、幹公か。足下は周瑜と親交でもあるのか」
「それがしは九江(キウキヤン)(ママ)の産れなので、周瑜とは郷里も近く、少年時代から学窓の友でした」
「それはよい手懸りだな。もし呉から周瑜を外せば、呉軍は骨抜きになる。大いに足下の労に嘱すが、行くとすれば、何を携へてゆくか」
「何もいりません。たゞ一童子と一舟を賜はらば充分です」
「説客の意気、さうなくては成らん、では、早速に」
と、彼のため一夕、旺(さかん)なる壮行会を設けて、江(カウ)に送つた。
蔣幹は、わざと、綸巾をいたゞき、道服をまとひ、一(イツ)壺(コ)の酒と、一人の童子をのせたゞけで、偏舟(ヘンシウ)飄々、波と風にまかせて、呉の陣へ下つて行つた。
「われは周都督の旧友である。なつかしさの餘り訪れて来た。——と称する高士風のお人が今、岸へ上(のぼ)つて来ましたが?」
と、聞いて、周瑜は、から/\と笑つた。
「はゝあ、やつて来たな、曹操の幕賓になつてゐるとか聞いてゐた蔣幹だらう。よし/\これへ通せ」
彼は、その間に、諸大将へ計(はかり)ごとを囁(さゝや)いて、
「さて、どんな顔をして来るか」
と、蔣幹を待つてゐた。
やがて蔣幹は、それへ案内されて来て、眼をみはつた。いや面喰らつたといつた方が実際に近い。華やかな錦衣をまとひ、花帽(クワバウ)をいたゞいた四、五百人の軍隊が、まづうや/\しく轅門(ヱンモン)に彼を出迎へ、さて、営中に入ると、同じやうに綺羅(キラ)な粧(よそほ)ひをした大将が、周瑜の座を中心に、星の如く居流れてゐる。
「やあ、幹公か。めづらしい御対面、おつゝがないか」
「周都督にも御機嫌よう、慶祝にたえません」
蔣幹は、拝を終ると、特に、親しみを示さうとした。
周瑜も、意識的にくだけた調子で、
「途中、よく矢にも弾にも狙はれず来られたな。こんな戦時下、遙遙(はる/゛\)、江(カウ)を渡つて、何しに来られたのだ。……曹操から頼まれてお越しになつたのぢやないかな。あははゝゝ、いや冗談々々」
と、対手(あひて)の顔色が変つたのを見ながら、すぐ自分で自分のことばを打消した。
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