吉川英治『三国志(新聞連載版)』(671)群英の会(一)
昭和16年(1941)11月25日(火)付掲載(11月24日(月)配達)
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敗戦の責任を問はれるものと察して、蔡瑁、張允の二人は、はや顔色もなかつた。
恟々(ケウ/\)として、曹操の前へすゝみ、且つ百拝して、このたびの不覚を陳謝した。
曹操は、厳として云つた。
「過ぎ去つた愚痴を聞いたり、また過去の不覚を咎(とが)めようとて、其(その)方(ハウ)たちを呼んだのではない。——要は、将来にある。かさねて敗北の恥辱を招いたら、その時こそ、屹度(きつと)、軍法に正してゆるさんが、この度だけは暫く免じておく」
意外にも、寛大な云ひ渡しに、蔡瑁は感泣してかう云つた。
「もとより、味方敗軍の責は、われらの指揮の至らない為にもありますが、もつとも大きな缺陥は、荊州の船手の勢が総じて調練の不足なのに比して、呉の舟手は、久しく鄱陽湖を中心に、充分、錬成の実をあげてゐたところにあります。——加ふるにお味方の北国兵は、水上の進退に馴れず、呉兵はこと/゛\く幼少から水に馴れた者共ばかりですから、江上の戦に於ても、さながら平地と異(ことな)らず、こゝにも多分な弱点が見出されます」
それは曹操も感じてゐる事だつた。併(しか)し、この問題は、兵の素質と、長日月の訓練にあることなので、急場には如何ともすることができないのである。
「では、どうするか」
との問ひに、蔡瑁は次のやうな献策をもつて答へた。
「攻撃を止めて、守備の態をとることです。渡口を固め、要害を擁し、水中には遠くに亙(わた)つて水寨を構へ、一大要塞として徐(おもむ)ろに、敵を誘ひ、敵の虚を突き、そして彼の疲れを待つて、一挙に、下江を図られては如何でせう」
「ムム、よからう。其(その)方(ハウ)両名には、すでに水軍の大都督を命じてあるのだ。よしと信じることならいち/\計るには及ばん、迅速にとり行へ」
かう云ふことばの裏には、曹操自身にも、水上戦には深い自信のないことが窺(うかゞ)へるのである。両都督の責を問はず、罪をゆるして励ましたのも、一面、それに代るべき水軍の智嚢が無かつたからであると云へないこともない。
いづれにせよ蔡瑁、張允のふたりは、ほつとして、軍の再整備にかゝつた。まず北岸の要地に、あらゆる要塞設備を施し、水上には四十二坐の水門と、蜿蜒(ヱンエン)たる寨柵(サイサク)を結ひまはし、小船はすべて内において交通、連絡の便りとし、大船は寨外に船列を布(し)かせて、一大船陣を常備に張つた。
その規模の大なることは、さすがに魏の現勢力を遺憾なく誇示するものだつたが、夜に入ればなほさら壮観であつた。約三百餘里に亙(わた)る要塞の水陸には篝(かゞり)、煙火(エンクワ)、幾万幾千燈が燃えかゞやいて、一天の星斗を焦がし、こゝに兵糧軍需を運送する車馬の響きも絡繹(ラクエキ)と絶えなかつた。
「近頃、上流にあたる北方の天が、夜な/\真つ赤に見えるが、あれは抑(そも)、何のせゐか」
南岸の陣にある呉の周瑜は、怪(あやし)んで或る時、魯粛にたづねた。
「あれは、曹操が急に構築させた北岸の要塞で、毎夜、旺に焚いてゐる篝や燈火(ともしび)が雲に映じてゐるのでせう」
魯粛が、更に、精(くは)しく説明すると、周瑜はこのところ甘寧の大捷(タイセフ)に安んじて、呉軍(ママ)怖るゝに足らずと、大いに驕(おご)つてゐたところであつたが、急に不安を抱(いだ)いて、いちど要塞の規模を自身探つてみようと云ひ出した。
「敵を知るは、戦に勝つ第一の要諦だ」
と称して、一夜、周瑜はひそかに一船に乗りこみ、魯粛、黄蓋など八名の大将を連れて、曹軍の本拠を偵察に行つた。
もちろん危険な敵地へ入るわけなので、船楼には、二十張の弩弓(ドキウ)を張つて、それ/゛\弩弓手を配しておき、姿は、幔幕をめぐらして蔽(おほ)ひ隠し、周瑜や魯粛などの大将たちは、わざと鼓楽を奏して、敵の眼をくらましながら、徐々、北岸の水寨へ近づいて行つた。
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