吉川英治『三国志(新聞連載版)』(669)狂瀾(二)
昭和16年(1941)11月22日(土)付掲載(11月21日(金)配達)
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孔明に別れて、船へ移ると、玄徳はすぐ満帆を張らせて、江を溯(さかのぼ)つて行つた。
進むこと五十里ほど、彼方に一群の船団が江上に陣を作(な)してゐる。近づいて見れば、自分の安否を気遣つて迎へにきた張飛と船手の者共だつた。
「おうよくぞ、おつゝがなく」
一同は、無事を祝しながら、主君の船を囲んで、夏口へ引揚げた。
玄徳の立(たち)帰つた後——呉の陣中では、周瑜が、掌中の珠を落したやうな顔をしてゐた。
魯粛は、意地わるく、わざと彼にかう云つた。
「どうして都督には、今日の機会を、みす/\逸して、玄徳を生かして帰してしまはれたのですか」
周瑜は自分の不機嫌を、どうしやうもない——といつたやうに、
「始終、関羽が玄徳のうしろに立つて、此(この)方(ハウ)が杯(さかづき)へやる手にも、眼を離さず睨んでをる。下手をすれば、玄徳を殺さないうちに、こつちが関羽に殺されるだらう。何にしても、あんな猛犬が番についてゐたんでは、手が出せんさ」
嚙んで吐き出すやうな返事であつた。魯粛はむしろ呉のために、彼の計画の失敗したことを歓んでゐた。
この事あつてからまだ幾日も経たないうちの事である。
「魏の曹操から書簡を携へて、江岸まで使者の船が来ましたが?」
とのしらせに、
「通せ。——しかし曹操の直書か否か、その書簡から先に示せと云へ」
と、周瑜は、帷幕にあつて、それを待つてゐた。
やがて、取次ぎの大将の手から、恭しく彼の前へ一書が捧げられた。書簡は皮革をもつて封じられ、紛れもない曹操の親書ではあつた。
——けれど周瑜は、一読するや否、面(おもて)に激色をあらはして、
「使者を逃がすな」
と、まづ武士に云ひつけ、書簡を引(ひき)裂いて、立(たち)上(あが)つた。
魯粛が、驚いて、
「都督、なんとされたのです」
と、訊くと、周瑜は、足(あし)下(もと)へ破り捨てた書簡の断片を、足でさしながら罵つた。
「それを見るがいゝ。曹賊め、自分のことを、漢大丞相(カンのダイシヤウジヤウ)と署名し、周都督に付するなどゝ、まるで此方を臣下あつかひに認(したゝ)めてをる」
「すでに充分、敵性を明らかにしてゐる曹操が、どう無礼をなさうと、怒るには足らないでせう」
「だから此方も、使者の首を刎ねて、それに答へてやらうといふのだ」
「然し、国と国とが争つても、相互の使は斬らないといふのが、古来の法ではありませんか」
「なんの、戦争に入るに、法があらうか。敵使の首を刎ねて、味方の士気を振(ふる)ひ、敵に威を示すは、むしろ戦陣の慣ひだ」
云ひすてゝ帳外へ濶歩して行つた。周瑜は、そこへ使者を引(ひき)出させて、何か大声で罵つてゐたが、忽ち剣鳴(ケンメイ)一(イツ)戞(カツ)、首を打(うち)落して、
「従者。使の従者。この首はくれてやるから、立(たち)帰つて、曹操に見せろ」
と、供の者を追ひ返した。
そして、直(たゞち)に、
「戦備にかゝれ」
と、水、陸軍へ亙(わた)つて号令した。
甘寧を先手に、蔣欽、韓当を左右の両翼に、夜の四更に兵糧をつかひ、五更に船陣を押しすゝめ、弩弓(ドキウ)、石砲を懸(かけ)連(つら)ねて、
「いざ、来れ」
と、待ちかまへてゐた。
果(はた)せるかな曹操は、使者の首を持つて逃げ帰つて来た随員の口々から、云々(しか/゛\)と周瑜の態度を聞きとつて、
「今は」
と、最後の臍(ほぞ)をかため、水軍大都督の蔡瑁、張允を召(めし)出して、
「まづ、周瑜の陣を破れ、然る後に、呉の全土を席巻せん」
と、云ひつけた。
江上は風もなく、四更の波も静かだつた。時、建安十三年十一月。荊州降参の大将を船手の先鋒として、魏の大船団は、三江をさして、徐々南下を開始してゐた。
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