吉川英治『三国志(新聞連載版)』(668)狂瀾(一)
昭和16年(1941)11月21日(金)付掲載(11月20日(木)配達)
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本来、この席へ招かれていゝわけであるが、孔明には、玄徳が来たことすら、聞かされてゐないのである。
以て、周瑜の心に、何が潜んでゐるか、察することができる。
「……?」
帳(とばり)の外から宴席の模様を窺(うかゞ)つてゐた孔明の気持は、正にわが最愛の親か子が、猛獣の檻(をり)に入つてゐるのを覗(のぞ)いてゐるやうな不安さであつた。
——が、玄徳は、いかにも心やすげに、周瑜と話してゐるふうだつた。
——たゞ、その背後(うしろ)には、剣を把つて、守護神の如く突つ立つてゐる関羽が見える。——孔明はそれを見て、
「関羽があれに侍立してゐるからは……」
と、少し安心して、そつと屋外へ出ると、飄然、江岸にある自分の仮屋のほうへ立(たち)去つた。
よもや、孔明がついこの席の外に佇んでゐたとも知らない玄徳は、周瑜との雑談の末、軍事に及び、漸く話も打(うち)解けて来たので、側にゐた魯粛をかへりみて、
「時に、臣下の孔明が、久しく御陣中に留(とゞま)つてをるさうですが、ちやうどよい折、これへ呼んでいただけまいか」
と、云つてみた。
すると、周瑜がすぐ返事を奪(と)つて、
「それは造作もないことだが、どうせ一戦は目前に迫つてをること。曹操を破つて後、めでたく祝賀の一会といふ時に、お会ひになつたらいゝではないか」
と、すぐ話をわきへそらし、ふたゝび、曹軍を討つ軍略や手配などを、しきりに重ねて云ひ出した。
関羽は、主君の袂(たもと)をひいて、うしろからそつと眼くばせした。——その事に触れない方が御賢明ですよ、と注意するのであつた。玄徳もすぐ覚(さと)つて、
「さうですな。では今日の御杯も、これくらゐでお預けしておきませう。いづれ、曹操を打(うち)破つた上、あらためて祝賀のお慶びに出直すとして——」
と、うまく席を立つ機をつかんで別れた。
餘りにあざやかに立たれてしまつたので、周瑜もいさゝかまごついた形だつた。実は、玄徳を酔はせ、関羽にも追々酒をすゝめて、この堂中を出ぬまに、刺殺してしまはうと、四方に数十人の剣士力者を忍ばせておいたのであつた。
それを、つい、うまく座を外されてしまつたので、合図する遑(いとま)すらなく、周瑜も倉皇と、轅門(ヱンモン)の外まで見送りに出て、空しく客礼ばかり施してしまつた。
駒に乗つて、本陣を去ると、玄徳は、関羽以下二十餘人の従者を具して、飛ぶが如く、江岸まで急いで来た。
——と、水辺の楊柳の蔭から手をあげて、
「ご主君、おつゝがもなく、お帰りでしたか」
と、呼ぶ人がある。
見れば、懐かしや、孔明ではないか。玄徳は駒の背から飛(とび)降りて、
「おゝ、孔明か」
と、駈け寄り、相抱いて、互ひの無事をよろこんだ。
孔明は、その歓びを止(とゞ)めて、
「私の身はいま、その象(かたち)に於(おい)ては、虎口の危(あやふ)き中にゐますが、しかし安きこと泰山の如しです。決して御心配くださいますな。——むしろこの先とも、お大事を期していたゞきたいのは、我君の行動です。来る十一月の二十日(はつか)は、正(まさ)しく甲子(きのえね)にあたります。お忘れなく、その日は、御麾下趙雲に命じて、軽舸(はやぶね)を出し、江(カウ)の南岸にあつて、私を待つやうにお備へください。いまは帰らずとも、孔明は必ず東南の風の吹(ふき)起(おこ)る日には帰ります」
「先生、どうして今から、東南の風の吹く日が分りますか」
「十年、隆中の岡に住んでゐた間は、毎年のやうに、春去り、夏を迎へ、秋を送り、冬を待ち、長江の水と空ゆく雲をながめ、朝夕の風を測つて暮してゐたやうなものですから、それくらゐな観測は、ほゞ外れない程度の豫見はつきます。——おゝ、人目にふれないうちに、君には、お急ぎあつて」
と、孔明は、主君を船へせきたてると、自分も忽然と、呉の陣営のうちに、姿をかくしてしまつた。
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