吉川英治『三国志(新聞連載版)』(667)殺地の客(四)
昭和16年(1941)11月20日(木)付掲載(11月19日(水)配達)
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翌日、また次の日と、会談は両三回に及んだが、周瑜はいつも、話題の孔明に及ぶことを避けてゐた。
糜竺は三日目の朝、暇(いとま)を告げに行つた。すると、周瑜は初めて、
「孔明も今わが陣中に在るが、共に曹操を討つには、ぜひ一度、劉豫公も加へて、緊密なる大策を議さねばなるまいかと考へてをる。——幸に、玄徳どのが、これまで来会してくれゝば、これに越したことはないが」
と、云つた。
糜竺は、畏まつて、
「何と仰せあるか判りませんが、御意向の趣きは、主君劉豫州にお伝へしませう」
と約して帰つた。
魯粛はそのあとで、
「何の為に、玄徳を、この陣中へお招きになるのですか」
と、周瑜の意中をいぶかつて訊ねた。すると、周瑜は、
「もちろん殺すためだ」
と、平然と答へた。
孔明を除き、玄徳を亡き者にしてしまふ事が、呉の将来の為であると、周瑜はかたく信じてゐるらしいのである。その点、魯粛の考へとは非常に背馳(ハイチ)してゐるけれど、まだ曹操との一戦も開始しないうちに、味方の首脳部で内紛論争を起すのもおもしろくないことだし、先は、大都督の権を以てすることなので、魯粛も、
「さあ、どういふものですかな」
と、口を濁す程度で、敢て、強い反対もしなかつた。
一方、夏口にある玄徳は、帰つて来た糜竺の口から委細を聞いて、
「では自身、さつそく呉の陣を訪ねて行かう」
と、船の準備をいひつけた。
関羽をはじめ諸臣はその軽挙を危(あやぶ)んで、
「糜竺が行つても孔明に会はせない点から考へても、周瑜の本心といふものは、多分に疑はれます。態(テイ)よく、返書でもお遣(や)りになつておいて、もう少し彼の旗色を見てゐてはいかゞですか」
と、諫めたが、玄徳は、
「それでは、せつかく孔明が使して実現した同盟の意義と信義にこちらから反(そむ)くことにならう。虚心坦懐、たゞ信をもつて彼の信を信じて行くのみ」
と云つて肯(き)かない。
趙雲、張飛は、留守を命ぜられ、関羽だけが供をして行つた。
一船の随員わづか二十餘名、程なく呉の中軍地域に着いた。
江岸の部隊からすぐこの由が本陣の周瑜に通達された。——来たか!といふやうな顔色で、周瑜は番兵にたづねた。
「玄徳は、どれほどな兵を連れてやつて来たか」
「従者は二十人ぐらゐです」
「なに二十人」
周瑜は笑つて、
(わが事すでに成れり!)
と、胸中でつぶやいてゐた。
程なく、玄徳の一行は、江岸の兵に案内されて、中軍の営門を通つて来た。周瑜は出て、賓礼を執り、帳中に請(セウ)じては玄徳に上座を譲つた。
「初めてお目にかゝる。わたくしは劉備玄徳。将軍の名はひとり南方のみではなく、かね/\北地にあつても雷(ライ)のごとく聞いてゐましたが、測(はか)らず今日、拝姿を得て、こんな愉快なことはありません」
玄徳が、まづ云ふと、
「いや/\、寔(まこと)に、区々たる不才。劉皇叔の御名こそ、かねてお慕ひしてゐたところです。陣中、何の御歓待もできませんが」
と、型のごとく、酒宴に遷(うつ)り、重礼厚遇、至らざるなしであつた。
その日まで、孔明は何も知らなかつたが、ふと、江岸の兵から、今日のお客は、夏口の劉皇叔であると聞いて、
「さては?」
と、愕(おどろ)きをなして、急に、周瑜の本陣へ急いで行つた。——そして帳外に佇(たゝず)み、ひそかに主客の席を窺(うかゞ)つてゐた。
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次回 → 狂瀾(一)(2025年11月20日(木)18時配信)

