吉川英治『三国志(新聞連載版)』(666)殺地の客(三)
昭和16年(1941)11月19日(水)付掲載(11月18日(火)配達)
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すでに一帯の陣地は黄昏(たそが)れかけてゐる。周瑜(しゆうゆ)は馬を呼んでゐた。五千の兵は、薄暮の中に勢揃ひして、粛然、出立の令を待つてゐるところであつた。
そこへ魯粛が駆けて来て、孔明のことばを周瑜に伝へた。周瑜は聞くと、耳をそばだてゝ、
「噫(あゝ)。おれの才は、つひに孔明に及ばないか」
と、痛嘆した。
急に彼は、出立を取消した。聚鉄奇襲の計画をあきらめてしまつたのである。彼も決して暗愚なる大将ではない。孔明に云はれないでも、そのことの危険は充分に知つてゐたからだつた。
しかし、その夜の挙は見合せたにしても、孔明に対する害意に変更は来さなかつた。むしろ孔明の叡智を恐れるのあまり、その殺意は、いよ/\深刻となり陰性となつて、周瑜の胸の奥に、
(後日、またの機会に)
と、独り密かに誓はれてゐたにちがひなかつた。
——かうした南方の情勢一変と、孔明の身辺に一抹の凶雲が纏(まつ)はつて来つゝある間に、一方、江夏(武昌)の玄徳は、そこを劉琦の手勢に守らせて、自身とその直属軍とは、夏口(漢口)の城へ移つてゐた。
彼は、毎日のやうに、樊口(ハンコウ)の丘へ登つて、
「孔明は如何(いか)にせしか」
と、長江の水に思慕を託し、また仰いでは、
「呉の向背や如何に?」
と、江南の雲に安からぬ眸を凝してゐた。
ところへ、近頃、遠く物見に下江(くだ)つて行つた一艘が帰帆して来て、玄徳に告げることには、
「呉はいよ/\魏軍へ向つて開戦しました。数千の兵船が、舳艫をならべて遡航しつつあるとのこと。また、三江の江岸一帯、前代未聞の水寨(スヰサイ)を構築してゐます。更に、北岸の形勢を窺(うかゞ)ふに、魏の曹操は、百万に近い大軍をもつて、江陵、荊州地方から続々と行動を起し、水陸にかけて真黒な大軍団が、夜も昼も、南へ/\と移動しつゝあります」
と、あつた。
玄徳はその報告の半(なかば)まで聞かないうちに、もう脈々たる血のいろを面(おもて)にあらはし、
「さては、わが策成れり」
と歓び勇んだ。
元来、玄徳は、よほどな事があつても、そう欣舞雀躍はしない性(たち)である。時によると、うれしいのかうれしくないのか、侍側(ジソク)の者でも、張合ひを失ふほど頗(すこぶ)る〔ぼう〕としてゐることなどある。
だが、この時は、よほど内心うれしかつたやうである。すぐ夏口の城楼に、臣下をあつめて、
「すでに、呉は起(た)つたのに、今もつて、孔明からは何の消息もない。誰(たれ)か、江を下つて、呉軍の陣見舞に赴き、孔明の安否を探つて来る者はないか」
と、云つた。
糜竺がすゝんで望んだ。
「不才ながら、てまへが行つて来ませう」
「そちが行つてくれるか」
玄徳は、適任だと思つた。
糜竺はもと/\外交の才があり臨機の智に富んでゐる。彼は山東の一都市に生れ、家は郯城(タンジヤウ)切つての豪商であつた。——いまは遠い以前となつたが、玄徳が旗挙げ早早、広陵(クワウレウ)(江蘇省・江都県)のあたりで兵員も軍用金も乏しく困窮してゐた頃——商家の息子たる糜竺は、玄徳の将来を見こんで、その財力を提供し、兵費を賄ひ、すすんで自分の妹を、玄徳の室に入れ、以来、今日にいたる迄(まで)、専ら玄徳軍の財務経理を担当して来たといふ帷幕(ヰバク)の中でも一種特異な人材であつた。
「そちが行つてくれゝば申分はない。頼むぞ」
安心して、玄徳は彼を遣(や)つた。糜竺はかしこまつて、直(たゞち)に、一帆の用船に、薫酒、羊肉、茶、其(その)他(ほか)沢山な礼物を積んで、江を下つた。
呉陣の岸に着いて、番の隊将に旨をつたへ、すぐ本営に行つて周瑜と会つた。
「これは、懇(ねんごろ)な陣見舞を」
と、周瑜は快く品々をうけ、また使糜竺をもてなしはしたが、
「どうか、ご主君劉豫公へ、よろしくお伝へ賜りたい」
と、どこか〔よそ〕/\しく、孔明のうはさなどには、一切ふれて来
なかつた。
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