吉川英治『三国志(新聞連載版)』(665)殺地の客(二)
昭和16年(1941)11月18日(火)付掲載(11月17日(月)配達)
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孔明はすぐ覚(さと)つた。これは周瑜が、敵の手をかりて、自分を害さうとする考へであるに違ひない——と。
が彼は、欣然、
「承知しました」
と、ことばをつがへて帰つて行つた。
側(そば)にゐた魯粛は、周瑜のためにも孔明の為にも惜んで、後からそつと孔明の仮屋(かりや)を窺(うかゞ)つてみた。
帰るとすぐ、孔明は鉄甲を着け、剣を佩(は)き、早くも武装して夜に入るのを待(まち)かまへてゐる様子である。魯粛は怺(こら)へかねて、姿を見せ、気の毒さうにたづねた。
「先生、あなたは今宵の御発向に、必勝を期して行かれるのですか。それとも、やむなき破目と、観念されたのですか」
孔明は、笑ひを含んで、
「広言のやうですが、この孔明は、水上の船戦(ふないくさ)、馬上の騎兵戦、輸車戦車の合戦、歩卒銃手の平野戦、いづれに於(おい)ても、その妙を極めぬものはありません。——何で、敗北と諦めながら出向きませう」
「しかし、曹操ほどな者が、全軍の生命とする糧倉の地に、油断のあるはずはない。寡兵をもつて、それへ近づくなど、死地に入るも同様でせう」
「それは、貴公の場合とか、また周都督ならさうでせう。さう二者が一つになつても、漸くこの孔明の一能にしか成りませんからな」
「二者にして一能にしか成らんとは、どういふわけですか」
「陸戦にかけては魯粛、水軍にかけては周瑜ありとは、よく呉の人から自慢に聞くことばです。けれど失礼ながら、陸の覇者たるあなたも、船戦にはまつたく晦く、江上の名提督たる周閣下も、陸戦においては、河童(かつぱ)も同様で、なんの藝能もありません。——思ふに、完(まつた)き名将といはるゝには、智勇兼備、水陸両軍に精(くは)しく、いづれを不得手、いづれを得手とするが如き、片輪車(かたわぐるま)ではなりますまい」
「ほう。先生にも似あはしからぬ大言。この魯粛はともあれ、周都督を半能の人と仰せらるゝは、近頃ちとおことばが過ぎはしませんか」
「いや、試みに、眼前の事実をごらんあれば分らう。この孔明に兵千騎を託して、それで聚鉄山の糧倉が焼き払へるものと考へてゐるなどは、まつたく陸戦に晦(くら)い證拠ではありませんか。——われもし今宵討死せば、周都督の愚将たる名は一時に天下にとゞろくでせう」
魯粛は驚いて、愴惶(サウクワウ)と立ち去つたが、すぐその事を、周瑜の耳に入れてゐた。
由来、周瑜も感情家である。時々、その激血が理性を蹴る。いまも魯粛から、孔明の大言したことを聞くと、
「なに、この周瑜を、陸地の戦ひには、まつたく暗い愚将だと云つたか。半能の大将に過ぎないと云つたのだな。……よしつ、すぐもう一度、孔明のところへ行つて、孔明の出陣を止めて来てくれ。こよひの夜襲には、われ自ら進んで、かならず敵の糧倉を焼払つてみせる」
孔明に侮られたのを心外とするの餘り、意を決して、自身の手並のほどを見せ示さうとする気らしい。直に幕下へ発向の触れをまはして、兵数も増して五千餘騎となし、夜と共に出で立つ準備にとりかゝつた。
かくと魯粛から聞いて、孔明はいよ/\笑つた。
「五千騎行けば五千、八千騎行けば八千、こと/゛\く曹操の好餌となつて、大将も生け捕られるであらう。周都督は呉の至宝、さうさせてはなるまい。足下は親友、よく理を説いて、思ひ止まらせてあげたがよい」
そしてなほ、魯粛に言を託して、
「いま、呉とわが劉豫州の君とが、真に一体となつて曹操に当れば、大事はきつと成るであらう。相剋(サウコク)し、内争し、相疑へば、かならず曹操に乗ぜられん。——またこのたびの出師(シユツスヰ)(ママ)にその戦端を陸地(くがち)から選ぶは不利、よろしく江上の船戦をもつて、第一戦の雌雄を決し、敵の鋭気を挫(くじ)いて後、徐々陸戦の機を測るべきであらう」
と、云つて遣(や)つた。
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次回 → 殺地の客(三)(2025年11月18日(火)18時配信)

