吉川英治『三国志(新聞連載版)』(664)殺地の客(一)
昭和16年(1941)11月16日(日)付掲載(11月15日(土)配達)
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孔明の使命はまづ成功したといつてよい。呉の出師(シユツスイ)(ママ)は思ひどほり実現された。孔明はあらためて孫権に暇(いとま)を告げ、その日、すこし遅れて一艘の軍船に身を託してゐた。
同舟の人々は、みな前線に赴く将士である。中に、程普、魯粛の二将もゐた。
程普は由来、大都督周瑜と、餘り〔そり〕のあはない仲だつたし、こんどの出師(シユツスイ)(ママ)にも、反対側に立つてゐたが、いまは口を極めて、周瑜の人物を賞揚してゐた。
「何といつても、まだ若いし、どうかと実は危ぶんでをつたが、今朝、江岸の勢揃ひに、将臺に立つて三軍の令を云ひ渡した態度と威厳は、実に堂々たるものだつたさうな——伜(せがれ)の程咨(テイジ)もさう云ひをりました。稀代な英傑が呉に生れたものだと」
魯粛もそれへ相槌を打つて、
「いやあのお方は、青年時代、ひどく風流子のやうに云はれ過ぎてゐたが、どうして/\外柔内剛です。これから戦場に臨んでみたら、いよ/\その本質が発揮されるでせう」
と、云つた。
程普は、いかにもと、打ち頷(うなづ)いて、
「自分なども今までは、周都督の人物にたいし、認識を缺いてゐた一人であつたが、今日以後はいかに此方等が年長であらうと実戦の体験に精(くは)しからうと、問ふところではない。ひたすら周都督の命令によつて忠節をつくさうと思ふ。——実は慚愧にたへないので、出舷の前に、都督に会つて、さう偽りのない気もちを語り、旧来の罪を謝して来たわけだ」
と、しきりに懺悔してゐた。
孔明もそこにゐたが、二人のその話には、何もふれて行かなかつた。独り船窓に倚つて、恍然(クワウゼン)と、外の水や空を見てゐた。
三江を溯(さかのぼ)ること七、八十里、大小の兵船は蝟集(ヰシフ)してゐた。江岸いたるところに水寨(スヰサイ)を構へ、周瑜はその中央の地点に位する西山(セイザン)をうしろに取つて水陸の総司令部となし、五十里餘に亙(わた)つて陣屋、柵門を構築し、天日の光も遮るばかり、翻々颯々、旗幡(キハン)大旆(タイハイ)を植ゑならべた。
「孔明もあとから来てゐるさうだが——」と彼はその本陣で、魯粛に会ふとすぐ云つた。
「誰(たれ)か、迎へにやつてくれないか」
「これへお召になるのですか」
「さうだ」
「では、誰彼といふよりも、自分で言つて参りませう」
魯粛は、すぐ江岸の陣屋へ行つて、そこに休息してゐた孔明を伴つてきた。
周瑜は、雑談の末、
「ところで、先生にお教へを乞ひたい事がありますが」
「何ですか」
「白馬、官渡の戦ひに就(つい)て」
「あれは袁紹と曹操の合戦でせう。私に何が分りませう」
「いや、先生の蘊蓄ある兵法に照して、あの戦ひに寡兵を以てよく大軍を打破つた曹操の大(ダイ)捷利(セフリ)は、何に起因するものなるかを——それがしのために説き明していたゞきたいので」
「士気、用兵の敏捷、もとより操と紹との違ひもありませうが、要するに、曹軍の奇兵が、袁紹側の烏巣の兵糧を焼き払つたことが、まづあの大捷を決定的なものにしたといつても過言ではありますまい」
「あゝ、愉快」
と、周瑜は膝を打つて、
「先生のお考へもさうでしたか、自分もあの戦ひの分れ目はその一挙にあつたと観てをつた。——思ふに今、曹操の兵力は八十三万、わが軍の実数はわづか三万、当年の曹操は将(まさ)にその位置を顚倒(テンタウ)して絶対優勢な側にある。これを破るには、われも亦(また)、彼の兵糧運送の道を断つが上策と考へるが、先生以て如何となすか?」
「彼の糧地はどこか突きとめてありますか」
「百方、物見を派して探り得てをる。曹操の兵糧はこと/゛\く聚鉄山(ジユテツザン)にあるといふ。先生は少年の頃から荊州に住み馴れ、あの辺の地理には定めしおくはしいであらう。彼を破るは、共に主君の御為、ひとつ決死の兵千餘騎を貸しますから、夜陰、敵地に深く入つて、彼の糧倉を焼き払つて下さらんか。——あなたを措(を)(ママ)いては、この壮挙を見事成し遂げる人はゐない」
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次回 → 殺地の客(二)(2025年11月17日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

