吉川英治『三国志(新聞連載版)』(663)大号令(五)
昭和16年(1941)11月15日(土)付掲載(11月14日(金)配達)
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その朝、諸葛瑾は、ひとり駒に乗つて、街中(ガイチウ)にある弟孔明の客館を訪ねてゐた。
急に周瑜から密命をうけて、孔明を呉の臣下に加へるべく説きつけに行つたのである。
「おう、よくお越し下された。いつぞや城中では、心ならず、情を抑へてをりましたが、さてもその後は、お恙(つゝが)もなく」
と孔明は、兄の手をとつて、室へ迎へ入れると、懐(なつか)しさ、欣(うれ)しさ、また幼時の思ひ出などに、ただ涙が先立つてしまつた。
諸葛瑾も共に瞼をうるませて、骨肉(コツニク)相(あひ)擁(ヨウ)したまゝ、しばしは言葉もなかつたが、やがて心をとり直して云つた。
「弟。おまへは、古人(いにしへ)の伯夷(ハクイ)叔斉(シユクセイ)をどう思ふね」
「え。伯夷と叔斉ですか」
孔明は、兄の唐突な質問をあやしむと同時に、さてはと、心にうなづいてゐた。
瑾は、熱情をこめて、弟に訓(をし)へた。
「伯夷と叔斉の兄弟(ふたり)は、たがひに位を譲つて国をのがれ、後、周の武王を諫めて用ひられないと、首陽山にかくれて、生涯周の粟(あは)を喰はなかつた。そして餓死してしまつたが、名はいまに至るまで遺(のこ)つてゐる。思ふに、おまへと私とは、骨肉の兄弟でありながら、幼少早くも郷土とわかれ、生(を)ひ長じてはべつ/\な主君に仕へ、年久しく会ひもせず、稀々(たま/\)、相見たと思へば、公(おほやけ)の使節たり、また一方の臣下たる立場から、親しく語ることもできないなんて……伯夷叔斉の美しい兄弟仲を思ふにつけ、人の子として恥かしい事ではあるまいか」
「いえ、兄上。それはいさゝか愚弟の考へとはちがひます。家兄(このかみ)の仰つしやることは、人道の義でありませう。また情でございませう。けれど、義と情とが人倫の全部ではありません、忠、孝、このふたつは、より重いかと存ぜられます」
「もとより、忠、孝、義のひとつを缺いても、完(まつた)き人臣の道とはいへないが、兄弟一体となつて和すは、抑々(そも/\)、孝であり、また忠節の本ではないか」
「否とよ、兄上。あなたも私もみなこれ漢朝の人たる父母の子ではありませんか。私の仕へてゐる劉豫州の君は、正しく、中山靖王の後、漢の景帝の玄孫にあたらせられるお方です。もしあなたが志をひるがへして、わが劉皇叔に仕官されるなら、父母は地下に於(おい)て、どんなに御本望に思はれるか知れますまい。しかも、そのことはまた、忠の根本とも合致するでせう。どうか、末節の小義にとらはれず、忠孝の大本に帰つて下さい。われわれ兄弟の父母の墳(つか)は、みな江北にあつて江南にはありません。他日、朝廷の逆臣を排し、劉玄徳の君をして、真に漢朝を守り立てしめ、そして兄弟打揃うて故郷の父母の墳(つか)を清掃することができたら、人生の至楽はいかばかりでせう。——よもや世人も、その時は、諸葛の兄弟は伯夷叔斉に対して恥るものだとも云ひますまい」
瑾は、一言もなかつた。自分から云はうとしたことを、逆にみな弟から云ひ出されて、却(かへ)つて、自分が説破されさうなかたちになつた。
その時、江(カウ)の畔の方で、遠く出陣の金鼓や螺声(ラセイ)が鳴りとゞろいてゐた。孔明は、黙然とさしうつ向いてしまつた兄の心を察して、
「あれはもう呉の大軍が出舷する合図ではありませんか。家兄(このかみ)も呉の一将、大事な勢揃ひに遅れてはなりますまい。また折もあれば悠々話しませう。いざ、わたくしにお関(かま)ひなく、御出陣遊ばしてください」
と、促した。
「では、また会はう」
遂に、胸中のことは、一言も云ひ出さずに、諸葛瑾は外へ出てしまつた。そして心のうちに、
「ああ、偉い弟」
と、欣しくも思ひ、また苦しくも思つた。
周瑜は、諸葛瑾の口からその事の不成立を聞くと、苦々しげに、瑾へ向つて、
「では、足下も、やがて孔明と共に、江北へ帰る気ではないか」
と、露骨にたづねた。
瑾は、あわてゝ、
「何で呉君の厚恩を裏切りませう。そんなお疑ひをかうむるとは心外です」
と、云つた。
周瑜は冗談だよ、と笑ひ消した。しかし孔明に対する害意は次第に強固になつてゐた。
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次回 → 殺地の客(一)(2025年11月15日(土)18時配信)

