吉川英治『三国志(新聞連載版)』(661)大号令(三)
昭和16年(1941)11月13日(木)付掲載(11月12日(水)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 大号令(二)
***************************************
「断」は下つた。開戦は宣せられたのである。張昭以下和平派は、たゞ啞然たるのみだつた。
周瑜は、剣を拝受して、
「不肖、呉君の命をうけて、今より打破曹操の大任をうく。それ、戦ひにあたるや、第一に軍律を重しとなす。七禁令、五十四斬、違背あるものは、必ず罰せん。明暁天までに、総勢ことごとく出陣の具をとゝのへ、江の畔(ほとり)まで集まれ。所属、手配はその場に於(おい)て下知するであらう」
と、諸員へ告げた。
文武の諸大将は、黙々と退出した。周瑜は家に帰るとすぐ孔明を呼びにやり、けふの模様と、大議一決の由を語つて、
「さて。先生の良計を示し給へ」
と、密かにたづねた。
孔明は、心のうちで「わが事成れり」と思つたが、色には見せず
「いや/\、呉君のお胸には、なほまだ一抹の不安を残しをられてゐるに違ひありません。寡は衆に敵せず——この事は、御自身にも、深く憂ひて、恟々(ケウ/\)と自信なく、如何(いかゞ)はせんと、惑つてゐる所でせう。都督閣下には、労を惜まず、暁天の出陣までに、もう一度登城して、つぶさに敵味方の軍数を説き示し、呉君に確たる自信をお与へしておく必要があるかと思はれるが」
と、すゝめた。
いやしくも呉の一進一退は、いまや玄徳の運命にも直接重大な関係を生じて来たとみるや、孔明が主家のために、大事に大事をとることは、実に、石橋を叩いて渡るやうに細心だつた。
「——実(げ)にも」
と同意して、周瑜はふたゝび城へ登つた。もう夜半だつたが、あすの暁天こそ、呉にとつては興亡のわかれを賭した大戦にのぞむ前夜なので、孫権もまだ寝もやらぬ様子だつた。
すぐ周瑜を引いて、
「夜中、何事か」
と、会つた。
周瑜は、云つた。
「いよ/\明朝は発向しますが、君の御決心にも、もう御変化はありますまいな」
「この期(ゴ)に至つて、念にも及ばぬことではないか。……唯(たゞ)、いまも眠りに就(つ)きかねてゐたのは、如何(いか)んせん、魏に対して、呉の兵数の少いことだけだが」
「さうでせう。実は、その儀について、退出の後(のち)、ふと君にもお疑ひあらんかと思ひ出したので、急に、夜中をおしてお目通りに出たわけですが。……抑々(そも/\)、曹操が大兵百万と号してゐる数には、だいぶ懸値(かけね)があるものと自分は観てをります」
「もちろん多少の誇大はあらうが、それにしても、呉との差はだいぶあらう。実数はどのくらいか」
「測るに……中国の操直属の軍は十五、六万に過ぎますまい。それへ旧袁紹軍の北兵の勢約七、八万は加へてをりますが、もと/\被征服者の特有(つね)として、意気なく、忠勇なく、たゞ麾下(キカ)についてゐるだけのもの。殆(ほとん)ど怖るゝに足りません」
「なほ、劉表の配下であつた荊州の将士も、多分に加はつてゐるわけだが」
「それとて、まだ日は浅く、曹自身、その兵団や将には、疑心をもつて、よく、重要な戦区に用ひることはできないに極(きま)つてゐます。かう大観して来ると、多く見ても、三十万か四十万、その質に至つては、わが呉の一体一色とは、較べものになりますまい」
「でも、それに対して、呉の兵力は」
「明朝、江岸に集まる兵は、約五万あります。君には、あと三万を召集して、兵糧武具、船備など充分に御用意あつて、おあとからお進み下さい。周瑜五万の先陣は、大江を溯(さかのぼ)り、陸路(くがぢ)を駈け、水陸一手となつて、曹軍を突き破つて参りますから」
と、勇気づけた。
そう聞いて孫権は初めて確信を抱いたものゝ如く、なほ大策を語りあつて、未明にわかれた。
***************************************
次回 → 大号令(四)(2025年11月13日(木)18時配信)

