吉川英治『三国志(新聞連載版)』(660)大号令(二)
昭和16年(1941)11月12日(水)付掲載(11月11日(火)配達)
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容貌の端麗に似あはず、周瑜には底意地のわるい所がある。君前、また衆臣環視のなかで、張昭を躍起にさせておいて、その主張をことごとく辯駁(ベンバク)し、嘲笑し去つて和平派の文官達の口を、まつたく封じてしまつたのである。
その上で。
彼は、やをら孫権に向つて、自己の主張を述べ出した。
何の事はない。今まで張昭を論争の対手(あひて)にしてゐたのは、こゝで云はうとする自己硬論を引つ立てるワキ役に引(ひき)出(だ)してゐたやうなものだつた。
「曹軍の強勇なことは確かだが、それも陸兵だけのことだ。北国育ちの野将山兵に、何で江上の水軍が操れよう。馬上でこそ口をきけ、いかに曹操たりとも、わが水軍に対しては、一籌(イツチウ)を輸するものがあらう」
まず和平派の一論拠を、かう駁砕(バクサイ)してから、
「また、より以上、重要視すべきは、国そのものゝ態勢と四隣の位置でなければならん。わが呉は、南方は環海の安らかに、大江の嶮(ケン)は東方を繞(めぐ)り、西隣(セイリン)また何の患(わづら)ひもない。——それに反して魏は、北国の平定もつい昨日の事、その残軍離亡の旧敵などたえず曹操の破れを窺(うかゞ)つてゐることは云ふまでもない。後にはさうした馬超、韓遂の輩(ともがら)があり、前には玄徳、劉琦の一脅威をひかへ、しかも許都の中府を遠く出て、江上山野に転戦してゐることは——われら兵家の者が心して見れば、その危(あやふ)さは累卵にひとしいものがある。……いはゞこの際は彼自ら呉境へ首を埋める墳(つか)を探しに来たやうなものだ。この千載一遇の機会を逸すばかりか跪(ひざま)づいて、彼の陣前に国土をさゝげ恥を百世にのこすも是非なしと断じるなどは、寔(まこと)に言語道断な臆病沙汰といふほかはない。君公、願はくばまづそれがしに数万の兵と船とを授け給へ。まづ以て、彼の大軍を撃砕し、口頭の論よりは事実を示して、和平を唱ふる諸員の臆病風を呉国から一掃してごらんに入れます」
和平派は色を失つた。
驚動を抑へながら、固く唇(くち)をとぢ合つたまゝ今はたゞ一縷(イチル)の望みを、呉主孫権の面(おもて)につないでゐた。
「おう周都督。いみじくも云はれたり。曹賊の経歴を見れば、朝廷にあつては常に野心勃々。諸州に対しては始終、制覇統一の目標に向つて、夜叉(ヤシヤ)羅刹(ラセツ)の如き暴威をふるつてゐる。袁紹、呂布、劉表。およそ羅刹の軍に呪はれたもので完き者は一名もない。たゞ今日まで、ひとりこの孫権が残されてゐたのみだ。豈(あに)、坐して曹賊の制覇にまかせ、紹、劉表などの惨めな前例に倣はうぞ」
「では、君にも、開戦と、お心を決しられましたか」
「卿は、全軍を督し、魯粛は陸兵をひきゐ、誓つて、曹賊を討て」
「もとより、呉のために、一命はかへりみぬ覚悟ですが、たゞなほ御主君が、微かでも、御決心をにぶらす事はなきやと、臣の惧(おそ)れるのはたゞそれだけです」
「さうか」
孫権はいきなり立つて、佩(は)いてゐる剣を抜き払ひ、
「曹操の首を断つ前に、まづわが迷妄から、かくのごとく斬るつ!」
と、前の几案(つくゑ)を、一(イツ)揮(キ)に、両断して見せた。
そしてその剣を、高々と片手にふりあげ、
「今日以後、ふたゝびこの問題で評議はすまい。汝等、文武の諸大将、また吏卒にいたるまで、かさねて曹操に降服せんなどゝ口にする者あらば、見よ、この几案(つくゑ)と同じものになることを!」
大堂の宣言は、階下にとゞろき、階下の〔どよめ〕きは中門、外門につたはつて、忽ち全城の諸声となり、わあつ——と旋風のごとく天地に震つた。
「周瑜。わしの剣を佩いて征(ゆ)け」
孫権は、その剣(つるぎ)を、周瑜にさづけて、その場で、彼を呉軍大都督とし、程普を副都督に任じ、また魯粛を賛軍校尉として、
「下知に反(そむ)く者あらば斬れ」
と、命じた。
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