吉川英治『三国志(新聞連載版)』(659)大号令(一)
昭和16年(1941)11月11日(火)付掲載(11月10日(月)配達)
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柴桑城の大堂には、暁天、早くも文武の諸将が整列して、呉主孫権の出座を迎へてゐた。
夜来、幾度か早馬があつて、鄱陽湖の周瑜は、未明に自邸を立ち、早朝登城して、今日の大評議に臨むであらうと、前触れが来てゐるからである。
やがて、真つ赤な朝陽(あさひ)が、城頭の東に雲を破つて、人々の面(おもて)にも照り映えて見えた頃、
「周提督のお着きです」
と、堂前(ダウゼン)遙(はるか)な一門から高らかに報らせる声がした。
孫権は威儀を正して、彼の登階を待ちかまへてゐた。それに侍立する文武官の顔ぶれを見れば、左の列には張昭、顧雍、張紘、歩隲、諸葛瑾、虞翻、龐統(ホウトウ)、陳武(チンブ)、丁奉(テイホウ)などの文官。——また右列には、程普、黄蓋、韓当、周泰、蔣欽、呂蒙、潘璋(ハンシヤウ)、陸遜(リクソン)などを初めとして、総(すべ)ての武官、三十六将、各々、衣冠(イクワン)剣佩(ケンパイ)をとゝのへて、
「周都督が肚にすゑて来た最後の断こそ、呉の運命を決するもの」
と、みな異常な緊張をもつて、彼のすがたを待つてゐた。
周瑜は、ゆうべ孔明が帰ると、直(すぐ)に、鄱陽湖を立つて来たので、殆(ほとん)ど一睡もしてゐなかつた。
しかしさすがに呉の傑物、いささかの疲れも見せず、まづ孫権の座を拝し、諸員の礼をうけて、悠然と席についた姿は、この人あつて初めてけふの閣議も重きを成すかと思はれた。
孫権は、口を開くなり直問した。
「急転直下、事態は険悪を極め、一刻の遷延もゆるさないところまで来てしまつた。都督、卿の思ふところは如何に。——忌憚(キタン)なく腹中を述べてもらひたいが」
「お答へする前にあたつて、一応伺ひますが、すでに御評定も何十回となくお開きと聞いてゐます。諸大将の意見はどうなのですか」
「それがだ。和戦両説に分れ、会議のたび紛々を重ねるばかりで一決しない。ゆえに卿の大論を聞かんと欲するわけだ」
「君に降参をおすゝめした者は誰(たれ)と誰(たれ)ですか」
「張昭以下、その列の人々だが」
「はゝあ……」
と、眸を移して、
「張昭が御意見には、この際、戦ふべからず、降参に如(し)くなしとの御方針か」
「しかり!」
と張昭は敢然答へた。すこし小(こ)癪(シヤク)にさはつたやうな語気も交つてゐた。なぜならば、昨日、周瑜の官邸で面談したときの態度と、けふの彼の容子とは、まるで違つて見えたからである。
「なぜ曹操に降参せねばならんのだらうか。呉は破虜将軍よりすでに三世を経た強国。曹操のごとき時流に投じた風雲児の出来星(できぼし)とはわけがちがふ。——御意見、周瑜にはいさゝか解(ゲ)しかねるが」
「あいや。提督のおことばではあるが、時流の赴(ゆ)くところ、風雲の依つて興るところ、決して〔ばか〕にはなりますまい」
「勿論。——しかし、東呉六郡をつかね、基業三代にわたるわが呉の伝統と文化は、決してまだ老いてはゐない。いや隆々として若い盛(さかり)にあるのだ。呉にこそ、風雲もあれ、時流もあれ、豈(あに)、一曹操のみが、天下を左右するものであらうぞ」
「彼の強味は、何よりも、天子の勅命と号してゐることです。いかにわれ/\が歯がみしてもこれに対しては」
「あはゝゝ」と、一笑して「——僭称(センシヨウ)の賊、欺瞞の悪兵。故にこそ、大いに逆賊操を討つべきではないか。彼が騙(いつは)りの名分を立てるなら、われらは以て朝命を汚(けが)す暴賊を討つべしとなし、膺懲(ヨウチヨウ)の大義を世にふるひ唱へねばならん」
「さはいへ、水陸の大軍百万に近しと申す。名分はいづれにせよ、彼の強馬精兵に対するわれの寡兵と軍備不足。この実力の差をどうお考へあるか」
「優数常に勝たず。大船常に小船に優(まさ)らず。要は士気だ。士気をもつて彼の隙を破るは、用兵の妙機にある。——さすがに、御身は文官の長。兵事にはお晦(くら)いな」
と、苦笑を送つた。
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