吉川英治『三国志(新聞連載版)』(656)酔計(すゐけい)二花(にくわ)(四)
昭和16年(1941)11月7日(金)付掲載(11月6日(木)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 酔計二花(三)
***************************************
周瑜は、孔明の無礼を咎めるやうな眼をして、敢てかう詰問(なじ)つた。
「先生。あなたは何がおかしくて先刻(さつき)からさうお笑ひなさるのか」
「いや何も提督に対して笑つたわけではありません。餘りといへば、魯粛どのが時務にうといので、つい笑ひを忍び得なかつたのです」
傍らの魯粛は、眼をみはつて、
「や、何を以て、この魯粛が時務にくらいと仰有(おつしや)るか。近頃、意を得ないおことばだ」
と、色をなして、共に、孔明の唇(くち)をみまもつた。
孔明は曰(い)つた。
「でも、考へても御覧なさい。曹操が兵を用ひる巧みさは、古(いにしへ)の孫子呉子にも勝(まさ)りませう。誰が何といつたところで、当今、彼に匹敵するものはありません。——ただ独りわが主君劉豫州は、大義あつて、私意なく、その強敵と雌雄を争ひ、いま流亡して江夏に籠つてをりますが、将来の事はまだ未知数です。——然るに、翻つて、この国の諸大将を見るに、どれもこれも一身一家の安穏にのみ囚はれてゐて、名を恥ぢず、大義を知らず、国の滅亡も、殆(ほとん)ど成り行(ゆき)にまかせてゐるとしか観られない。……さういふ呉将の中にあつて、粛(シユク)兄(ケイ)たゞ一名のみ、呶々(ドヽ)、烈々、主義を主張してやまず、今も提督にむかつて、無駄口をくり返してをらるゝから、つい可笑しくなつたまでのことです」
周瑜はいよ/\苦りきるし、魯粛もまた甚(はなはだ)しく不快な顔をして見せた。孔明の云つてゐることは、まるで反戦的だからである。折角、周瑜へ紹介の労をとつてゐるのに、まるでその目的も自分の好意も裏切つてゐるやうな口吻(コウフン)に、憤りを覚えずにゐられなかつた。
「では、先生には、呉の君臣をして、逆賊操に膝を屈せしめ、万代に笑ひをのこせと、敢て云はないばかりにおすゝめあるわけですか」
「いや/\決して、自分は何も呉の不幸を祈つてゐるわけではない。むしろ呉の名誉も存立も、事なく並び立つやうに、いさゝか一策をゑがいて、その成功を念じてをるものです」
「戦(たゝかひ)にもならず、呉の名誉も立派に立ち、国土も難なく保てるやうになんて——そんな妙計があるものだらうか」
魯粛が、案外な顔をして、孔明の心を測りかねてゐると、周瑜もともに、その言に釣りこまれて、膝をすゝめた。
「もし、そんな妙計があるなら、これは呉の驚異です。願はくば、初対面のそれがしの為に、その内容を、得心(トクシン)の参るやう、つぶさにお聴かせ下さらんか」
「いと易いことです。——それはたゞ一艘の小舟と、ふたりの人間の贈物をすれば足ることですから」
「はて?……先生の云ふ事は何だか戯(たはむ)れのやうに聞えるが」
「いや、実行して御覧あれば、その効果の覿面(テキメン)なのに、かならず驚かれませう」
「二人の人間とは?……いつたい誰(たれ)と誰(たれ)を贈物にせよと云はれるのか」
「女性です」
「女性?」
「星の数ほどある呉国の女のうちから、わづか二名をそれに用ひることは、たとへば大樹の茂みから二葉の葉を落すよりやさしく、百千の倉廩(サウリン)から二(ニ)粒(リフ)の米を減らすより些少な犠牲でせう。しかもそれに依つて、操軍の鋭鋒を一転北方へ回(かへ)すことができれば、こんな快事はないでせう」
「ふたりの女性とは、抑(そも)、何処の何ものをさすのか、はやくそれを云つてみたまへ」
「まだ自分が隆中に閑居してゐた頃のことですが——当時、操軍の北伐にあたつて、戦乱の地から移つて来た知人のはなしに、曹操は河北の平定後、漳河(シヤウガ)のほとりに楼臺を築いて、これを銅雀臺(ドウジヤクダイ)となづけ、造営落工までの費え千餘日、まことに前代未聞の壮観であると云つてをりましたが……」
孔明は容易に話の中心に触れなかつたが、しかも何か聴き人(て)の心をつかんでゐた。
***************************************
次回 → 酔計二花(五)(2025年11月7日(金)18時配信)

