吉川英治『三国志(新聞連載版)』(653)酔計(すゐけい)二花(にくわ)(一)
昭和16年(1941)11月2日(日)付掲載(11月1日(土)配達)
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周瑜は、呉の先主、孫策と同じ年であつた。
また彼の妻は、策の妃(ヒ)の妹であるから、現在の呉主孫権と周瑜とのあひだは、叔父(をぢ)甥(をひ)(ママ)に当るわけである。
彼は、盧江(ロカウ)の産(うま)れで、字(あざな)を公瑾(コウキン)といひ、孫策に知られてその将となるや、わづか二十四歳で中郎将となつた程な英俊だつた。
だから当時、呉の人はこの年少紅顔の将軍を、軍中の美周郎(ビシウラウ)と呼んだり、周郎々々と持て囃(はや)したりしたものだつた。
彼が、江夏の太守であつたとき、橋公といふ名家の二女を手に入れた。姉妹(ふたり)とも絶世の美人で、
——橋公の二名花
と、いへば呉で知らない者はなかつた。
孫策は、姉を入れて妃とし、周瑜はその妹を迎へて妻とした。——が間もなく策は世を去つたので、姉は未亡人となつてゐるが、妹は今も、瑜の又なき愛妻として、国許(くにもと)の家を守つてゐた。
当時、呉の人々は、
(橋公の二名花は、流離して、つぶさに戦禍を舐(な)めたが、天下第一の聟(むこ)ふたりを得たのは、また天下第一の幸福といふものだ)
と云つて祝福した。
わけて、青年将軍の周瑜は、音楽に精(くは)しく、多感多情の風流子でもあつた。だから宴楽の時などでも、楽人の奏(かな)でる調節(ふし)や譜に間違ひがあると、どんなに酔つてゐるときでも、きつと奏手の楽人をふり顧(かへ)つて、
(おや。いまのところは、ちよつとをかしいね)
と、注意するやうな眼をするのが常だつた。
だから当時、時人の謡(うた)ふ中にも
曲ニ誤リアリ
周郎、顧ミル
といふ歌詞すら有るほどだつた。
かういふ周瑜も、今は孫策亡きあとの呉の水軍提督たる重任を負つて、鄱陽湖へ来てからは、家にのこしてある愛妻を見る日もなく、好きな音楽に耳を洗ふいとまもなく、ひたすら呉の大水軍建設に当つてゐた。
しかもその水軍がもの云ふ時機は迫つてゐた。魏の水陸軍百万乃至(ないし)八十万といふものが南下を取つて、
我ニ質子(チシ)ヲ送リ、
我軍門ニ降ルカ
我ニ兵ヲ送リ、
我粉砕ヲ受ケルカ
と、頗(すこぶ)る高圧的に不遜な最後通牒を呉へ突きつけて来てゐるといふ。
もとより周瑜がそれを知らないはずはない。併(しか)し、彼の任は政治になく、水軍の建設とその猛練習にある。——今日も彼は、舟手の訓練を閲して、湖畔の官邸へひきあげて来ると、そこへ孫権からの早馬が来て、
「すぐさま柴桑城までお出向きください。国君のお召です」
と、権の直書(チヨクシヨ)を手渡して帰つて行つた。
「いづれは……」
と、かねて期してゐたことである。周瑜は、ひと休みすると、すぐ出立の用意をしてゐた。ところへ、日頃、親密な魯粛がたづねて来て、
「いま、お召の使があつたでせう。実は、その儀に就(つい)て、あらかじめ提督にお告げしておきたい事があつて参つたのです」
と、孔明の来てゐる事情から、国臣の意見が二つに分れてゐる実状などをつぶさに話し、——それに加へて、こゝで呉が曹操に降伏したら、すでに地上に呉国はないも同様であると、自分の主張をも痛論した。
「よろしい。ともかく、孔明と会つてみよう。——柴桑城へ伺ふのは、孔明の肚を訊ねてみてからでも、決して遅くはあるまいからともかく彼を伴(つ)れて来給へ。それまで登城をのばして待つてゐるから」
周瑜のことばに、魯粛は力を得て、欣然、馬を回(かへ)して行つた。——すると、同日の午(ひる)過ぎ、又もや、張昭、顧雍、張紘、歩隲(ホシツ)などの非戦派が、打(うち)揃つてこゝへ訪れ、
「魯粛が来たのでせう。実に怪しからん漢(をとこ)だ。何の故か、彼は孔明のために踊らされて、国を売り、民を塗炭の苦しみに投げこまうと、ひとりして策動してをる。——この危機と岐路に立つて、提督はいつたい何(ど)ういふ御意見を抱(いだ)いてをられますか」
と、周瑜を囲んで、論じ立てるのであつた。
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次回 → 酔計二花(二)(2025年11月4日(火)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。また、昭和16年(1941)11月4日(火)付の夕刊は、前日(配達日)の11月3日(月)が祝日(明治節)のため休刊でした。これに伴い明後日(11月3日)の配信もありません。

