吉川英治『三国志(新聞連載版)』(652)火中の栗(五)
昭和16年(1941)11月1日(土)付掲載(10月31日(金)配達)
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【前回迄の梗概】
◇…魏の曹操百万の大軍は破竹の勢をもつて南下し来り、劉玄徳の精鋭を一蹴し、劉表の拠った荊州を奪ひ、餘威を駆つて東呉に降服を迫つた。
◇…東呉の孫権は未だ弱冠にして血気さかん、敢て一戦をも辞せぬ気概を有してゐたが、幕下の諸将は降服説に傾いてゐた。時に玄徳の参謀諸葛孔明来り三寸不爛の舌をもつて孫権を説得し、遂に開戦を決意させる。
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「伏して、御賢慮を仰ぎまする。——ゆめ、孔明ごとき才物の辯に、大事を計られ、国家を誤り給はぬやうに」
張昭のあとについて、顧雍(コヨウ)も諫めた。他の諸大将も極言した。
「玄徳はいま、手も足も出ない状態に落ちてゐる。孔明を使としてわが国を抱(いだ)きこみ、併せて、曹操に復讐し、時至らば自己の地盤を拡大せんとするものでしかない」
「そんな輩(やから)に語らはれて、曹操の大軍へ当るなど、薪(たきゞ)を負うて猛火の中へ飛びこむやうなものです」
「君!火中の栗をひろひ給ふなかれ!」
この時、魯粛は堂外にゐたが、様子を見て、
「これはいかん」
と、苦慮してゐた。
孫権はやがて、諸員の〔がう〕/\たる諫言に、責めたてられて、耐へらじと思つたか、
「考へておく。なほ考へる」
と云つて、奥なる私室へ急ぎ足にかくれた。
その途中を、廊に待つて、魯粛はまた、自分の主張を切言した。
「彼らの多くは文弱な吏と、老後の安養を祈る老将ばかりです。君に降服をおすゝめするも、唯々(ただ/\)、家の妻子と富貴の日を偸(ぬす)みたい気もち以外に何もありはしません。決して、左様な惰弱な徒の言に過(あや)まられ給はぬやうに、確(しか)と、揺るがぬ覚悟をすゑて下さい。家祖孫堅の君には、いかなる御苦労をなされたか。また御兄君孫策様の御勇略はいかに。おふた方の血は正しくあなた様の五体にも脈々ながれてゐるはずではございませぬか……」
「離せ」
ふいに、孫権は袂(たもと)を払つて、室の中へ身をひるがへしてしまつた。後堂前閣の園をこゝかしこに、
「戦ふべしだ」
「いや、戦ふべからず」
と、喧々囂々(ケン/\ガウ/\)、議論のかたまりを持つて流れ歩いて来る一組が、すぐ近くの樹陰にも見えたからであつた。
何せよ、議論紛々だつた。一部の武将と全部の文官は、開戦に反対であり、一部の少壮武人には、主戦論が支持されてゐた。それを数の上から見れば、ちやうど七対三ぐらゐにわかれてゐる。
私房にかくれた孫権は、病人のやうに手を額(ひたひ)に当てゝゐた。寝食も忘れて懊悩悶々と案じ煩(わづら)つてゐた。東呉の国、興つてこゝに三代、初めての国難であり、また人間的には、彼といふ幸福に来た世継が、生れて初めて茲(こゝ)に与へられた大きな試煉でもあつた。
「……どうしたのです?」
食事も摂(と)らないといふので、呉夫人が心配して様子を見に来た。
孫権は、有(あり)の儘(まゝ)、つぶさに話した。当面の大問題。そして藩内の紛乱が、不戦主戦、二つに割れてゐることも告げた。
「まだ/\、そなたは坊つちやまですね、そんなことで御飯もたべなかつたのですか。何でもないではありませんか」
「この解決案がありますか」
「ありますとも」
「ど、どうするんですか」
「忘れましたか。そなたの兄孫策が、死に臨んで遺言されたおことばを」
「…………?」
「——内事決セズンバ是(これ)ヲ張昭ニ問ヘ。外事紛乱スルニ至ラバ是(これ)ヲ周瑜ニ計ルベシ——と仰つしやつたではなかつたか」
「あゝ……さうでした。思ひ出せば、今でも兄上の御声がする」
「それごらんなさい。日頃も父や兄を忘れてゐるからこんな苦しみにいたづらな煩悶をするのです。——内務はともかく、外患外交など、総じて外へ当ることは、周瑜の才でなくては成りますまい」
「さうでした!/\」
孫権は夢でもさめたやうに、さう叫んで、急にからりと面(おもて)を見せた。
「早速、周瑜を召して、意見を問ひませう。なぜ今日までそれに気がつかなかつたのだらう」
たちまち彼は一書を認(したゝ)めた。心きゝたる一名の大将にそれを持たせ、柴桑から程(ほど)遠からぬ鄱陽湖へ急がせた。水軍都督周瑜はいまそこにあつて、日々水夫軍船の調練にあたつてゐた。
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次回 → 酔計(すゐけい)二花(にくわ)(一)(2025年10月31日(金)18時配信)
今回で14冊単行本の巻の七「孔明の巻」に当たる部分は終了です。次回からは巻の八「赤壁の巻」に入ります。

