吉川英治『三国志(新聞連載版)』(747)(ママ)火中の栗(一)
昭和16年(1941)10月28日(火)付掲載(10月27日(月)配達)
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——一同、その沓音(くつおと)にふりかへつて、誰(たれ)かと見ると、零陵(レイリヨウ)泉陵(センリヨウ)の産、黄蓋(クワウガイ)、字(あざな)は公覆(コウフク)といつて、いま呉の糧財奉行、すなはち大蔵大臣格の人物だつた。
ぎよろりと、大堂を見わたしながら、天井を揺(ゆ)するやうな声で、
「諸公はいつたい何しとるんかつ。孔明先生は当世第一の英雄ぢや。この賓客にたいし、愚問難題をならべ、無用な口を開いていたづらに腸(はらわた)を客に見するなど、呉の恥ではないか。主君のお顔よごしでもある。慎まれいつ」
そして孔明に向つては、きわめて慇懃(インギン)に、
「最前からの衆臣の無礼、かならずお気にかけて給はるな。主君孫権には、疾(と)くより清堂を浄めて、お待ちしてをりまする。せつかくな金言玉論、どうかわが主君にお聴かせ下さい」
と、先に立つて、奥へ案内して行つた。
ばかな目を見たのは、〔むき〕になつて討論に当つた諸大将であつた。もとより之(これ)は黄蓋が叱つたわけではない。誰(たれ)か孫権へ告げた者があつて、孫権の考へから、賓客のてまへ、かう一同に云はざるを得なくなり、黄蓋が旨(むね)をふくんで来たものにちがひない。何にせよ、それからの鄭重なことは国賓を迎へるやうであつた。黄蓋と共に、魯粛も案内に立ち、粛々、中門まで通つて来ると、開かれたる燦碧金襴(サンペキキンラン)の門扉のかたはらに、黙然、出迎へてゐる一名の重臣があつた。
「おゝ……」
「おゝ……」
孔明は、はたと足をとめた。
その人も、凝然と、彼を見まもつた。
これなん、呉の参謀、孫権が重臣、そして孔明にとつて実の兄たる諸葛瑾であつた。
久しいかな、兄弟(ケイテイ)相(あひ)距(へだ)ち、また相会ふこと。
幼い者が手をつなぎあつて、老いたる従者や継母(はは)などと一緒に、遠く北支の空から南へ流れ/\て来た頃の、あの時代のお互ひのすがたや、惨風悲雨の中にあつた家庭のさまが、瞬間、ふたりの胸にはこみあげるやうに思ひ出されてゐたにちがひない。
「亮。この国へ見えられたか」
「主命をおびて罷(まか)り越しました」
「見ちがへる程になつた」
「家兄(このかみ)にも……」
「呉へ来たなら、なぜ早く、わしの邸(やしき)へ訪ねてくれなかつたか。旅舎からちよつと沙汰でもしてくれればよかつたのに」
「このたびの下江は、劉豫州の御使として来ましたので、わたくしの事は、総(すべ)て後にと控へてゐました。御賢察くださいまし」
「それも道理。——いやいづれ後でゆるりと会はう。呉君にもお待ちかねであらせられる」
諸葛瑾は、呉の臣に返つて、恭々(うや/\)しく賓客を通し、飄(ヘウ)として、立ち去つた。
豪壮華麗な大堂がやがて孔明の目前にあつた。珠欄玉階、彼の裳(もすそ)は、一歩々々のぼつてゆく。
やをら身を搔(か)い起して、それへ立(たち)迎へに出て来たのは、呉主孫権であることいふまでもない。
孔明は、ひざまづいて再拝した。
孫権は鷹揚(オウヤウ)に、半礼を返し、
「まづ……」
と、座へ請じた。
その上座をかたく辞して、孔明は横の席へ着いた。
そして玄徳からの礼辞を述べた。声音すゞやかで言葉にもむだがない。対する者をして何かしら快い感じを抱(いだ)かせるやうな風が汲み取られる。
「遠路、おつかれであらう」
孫権はねぎらふ。
文武の大将は遠く排列して、ただひそやかに一箇の賓客を見まもつてゐる。
孔明の静かなひとみは、時折、孫権の面(おもて)にそゝがれた。
孫権の人相をうかゞふに碧瞳(ヘキドウ)紫髯(シゼン)——いはゆる眼は碧にちかく髯(ひげ)は紫をおびてゐる。漢人本来の容貌や形態でない。
また腰かけてゐると、その上軀は実に堂々と見えるが、起(た)つと腰から下が甚だ短い。これも彼の特徴であつた。
孔明は、かう観てゐた。
(これはたしかに一代の巨人にはちがひない。しかし感情(カンジヤウ)昂(たか)く、内は強情で、精猛なかはりに短所も発し易い。この人を説くには、わざとその激情を励ますのがよいかも知れぬ)
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