吉川英治『三国志(新聞連載版)』(746)(ママ)舌戦(五)
昭和16年(1941)10月26日(日)付掲載(10月25日(土)配達)
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呉郡の陸績(リクセキ)、字(あざな)は公紀(コウキ)。
すぐ続いて、孔明へ論じかけた。
「いかにも、先生のいはるゝ通り、曹操は相国曹参の後胤、漢朝累代の臣たること、まちがひない。——しかし劉豫州は如何(いか)に。これは自称して、中山靖王の末裔とはいひ給へど、聞説(きくならく)、その生ひ立ちは、蓆(むしろ)を織り履(くつ)を商(あきな)うてゐた賤夫といふ。——これを較ぶるに、いづれを珠とし、いづれを瓦とするや。おのづから明白ではあるまいか」
孔明は、呵々大笑して、
「オヽ君はその以前袁術の席上に於て、橘を懷に入れたといふ陸郎であるな。まづ安坐してわが論を聞け。むかし周の文王は、天下の三分の二を領しながらも、なほ殷に仕へてゐたので、孔子も周の徳を至徳だと称(たゝ)へられた。これ飽(あく)まで君を冒さず、臣は臣たるの道である。——後、殷の紂王、悪虐のかぎりを尽し、つひに武王立つて、これを伐つも、なお伯夷(ハクイ)、叔斉(シユクセイ)は馬をひかへて諫めてをる。見ずや、曹操のごときは、累代の君家に、何の勲(いさを)だになく、しかも常に帝を害し奉らん機会ばかり窺つてゐることを。家門高ければ高きほど、その罪は深大ではないか。見ずやなほわが君家(クンカ)劉豫州を、大漢四百年、その間の治乱には、必然、多くの門葉(モンエフ)御支族も、僻地に流寓し、敢(あへ)なく農田に血液をかくし給ふこと、何の歴史の恥であらう。時来つて草莽の裡(うち)より現はれ、泥土去つて珠金の質を世に挙げられ給ふこと、また当然の帰趨(キスウ)のみ。——さるを履(くつ)を綯(な)へばとて賤しみ、蓆(むしろ)を織りたればとて蔑(さげす)むなど、そんな眼(まなこ)をもつて、世を観、人生を観、よくも一国の政事(まつりごと)に参じられたものではある。民にとつて天変地異よりも怖ろしいものは、盲目な為政者だといふ。けだし尊公などもその組ではないか」
陸績は胸ふさがつて、二の句もつげなかつた。
昂然(カウゼン)、また代つて立つたのは、彭城(ハウジヤウ)の厳畯(ゲンシユン)、字(あざな)は曼才(マンサイ)。
「さすがは孔明、よく論破された。わが国の英雄、みな君の辯舌に掩(おほ)はれて顔色もない。抑(そも)、君はいかなる経典に依つてそんな博識になつたか。ひとつその蘊蓄(ウンチク)ある学問を聴かうではないか」
と、揶揄(ヤユ)的にいつた。
孔明は、気を揮(ふる)つて、それへ一喝した。
「末梢を論じ、枝葉をあげつらひ、章句に拘泥して日を暮すは、世の腐れ儒者の所為(しわざ)。何で国を興し、民を安んずる大策を知らう。漢の天子を創始した張良、陳平の輩(ともがら)といへども、かつて経典に精(くは)しかつたといふことは聞かぬ。不肖孔明もまた、区々たる筆硯(ヒツケン)のあひだに、白を論じ黒を評し、無用の翰墨(カンボク)と貴重の日を費すやうなことは、その任でない」
「こは、聞き捨てにならぬことだ。では、文は天下を治むるに、無用のものといはれるか」
駁(バク)して来たのは、汝南の程秉(テイヘイ)であつた。孔明は面(おもて)を横に振りながら、
「早のみ込みをし給ふな。学文にも小人の弄文(ロウブン)と、君子の文業とがある。小儒はおのれあつて邦(くに)なく、春秋の賦(ふ)を至上とし、世の翰墨を費(つひや)して、世の子女を安きに惑溺させ、世の思潮をいたづらに濁すを能とし、辞々句々万言あるも、胸中一物の正理もない。大儒の業は、まづ志を一国の本(もと)におき、人倫の道を肉づけ、文化の健全に華をそへ、味なき政治に楽譜を奏(かな)で、苦しき生活に潤ひを齎(もたら)し、暗黒の底に希望をもたらす。無用有用はおのづからこれを導く政治の善悪にあつて、腐文盛んなるは、悪政の反映であり、文事健調なる——その国の政道明かなことを示すものである。——最前から各々の声音(セイオン)を通して、この国の学問を察するに、その低調、愍然(ビンゼン)たるものを覚(おぼ)ゆる。この観察は御不平であるや、如何に」
すでに満座声もなく、鳴りをひそめてしまつたので、こゝに至つて、かう孔明の方から一問した。
けれど、それに対して、もう起(た)つて答へる者のなかつた時、沓音(くつおと)高く、こゝへ入つて来た一人物があつた。
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