吉川英治『三国志(新聞連載版)』(644)舌戦(二)
昭和16年(1941)10月23日(木)付掲載(10月22日(火)配達)
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百万の陸兵だけならまだ怖れるに足らぬとしても、曹操の手には今、数千艘の水軍も調(とゝの)つてゐる。水陸一手となつて、下江南進して来た場合、それを防ぐには、呉の兵馬軍船も大半以上損傷されるものと覚悟しなければならない。
不戦論を主張する人々は、挙(こぞ)つてその非を鳴らした。
「たとへ勝つたところで、その消耗からくる国の疲弊は、三年や四年では取返しつきますまい、降伏に如(し)くなしです」
評議は長くなるばかりだ。孫権の肚はなほ決らないのである。彼はやゝ疲れを見せて、
「衣服を更(か)へてまた聴かう」
と、席を立つて殿裡へ隠れた。衣を更へるとは、休息の意味である。
魯粛はひとり彼に従(つ)いて奥へ行つた。孫権は意中を察して、
「魯粛。そちは最前、別に意見があると云つたが、こゝでなら云へるであらう。そちの考へではどうか」
と、親しく訊ねた。
魯粛は、重臣間に行はれてゐる濃厚な不戦論に接して、反感を唆(そゝ)られてゐた。その気持は、孔明に抱いてゐた同情とむすびついて、勃然と、主戦的な気を吐くに至つた。
「宿将や重臣の大部分が、云ひ合せたやうに、我君へ降参をおすゝめする理由(わけ)は、みな自己の保身と安穏をさきに考へて、君のお立場も国恥も大事と考へてゐないからです。——彼等としては、主君を更へて、曹操に降参しても、尠(すくな)くも位階は従事官を下らず、牛車に乗り、吏卒をしたがへ、悠々、士林に交遊して、無事に累進を得れば、州郡の太守となる栄達も約束されてゐるわけです。それに反して、我君の場合は、よく行つても、車一乗、馬数匹、従者の二十人も許されゝば、降将の待遇としては関の山でせう。固(もと)より南面して天下の覇業を行はんなどといふ望みは、もう死ぬまで持つことはできません」
当然、若い孫権は動かされた。彼はなほ多分に若い。消極論には迷ひを抱くが、積極性のある説には、本能的にも、血が高鳴つた。
「なほ詳しい事は、臣が江夏から伴(つ)れて来た一客を召して、親しくそれにお訊ね遊ばしてごらんなさい」
「一客とは誰か」
「諸葛瑾の弟、孔明です」
「お。臥龍先生か」
孫権も彼の名は久しく聞いてゐる。しかも自分の臣諸葛瑾の弟でもある。さつそく会ひたいと思つたが、然(しか)し、その日の事もあるので評議は一応取止め、明日また改めて参集すべし——と諸員へ云ひ渡した。
次の日の早朝、魯粛は、孔明をその客館へ誘ひに行つた。前の夜から報らせがあつたので、孔明は斎戒沐浴して、はや身支度をとゝのへてゐた。
「けふ呉君にお会ひになつて、曹操の兵力を問はれても、餘り実際のところをお云ひにならない方がよいと思ひます。何分、文武の宿老には、事なかれ主義の人物が大半以上ですから」
魯粛は、親切に囁(さゝや)いたが、孔明には、別に確たる自信があるものゝ如く、たゝ頷いて見せるだけだつた。
柴桑城の一閣には、その日、かくと聞いて、彼を待ちかまへてゐた呉の智嚢(チナウ)と英武とが二十餘名、峩冠(ガクワン)をいたゞき、衣服を正し、白髯(ハクゼン)黒髯(コクゼン)、細眼巨眼、痩軀肥大、各々異色のある威儀と沈黙を守つて、
(さて。どんな人物?)
と、云はぬばかりに居並んでゐた。
孔明は、清々(すが/\)しい顔をして、魯粛に導かれて入つて来た。そして居並ぶ人々へ、いち/\名を問ひ、いち/\礼を施してから、
「いたゞきます」
と、静に客位の席へついた。
その挙止は縹渺(ヘウベウ)、その眸は晃々(クワウ/\)、雲を凌(しの)ぐ山とも見え、山にかくされた月とも思はれる。
(さてはこの人、呉を説いて、呉を曹操に当らせんため——単身これへ来たものだな)
さすが呉国第一の名将といはれる張昭)は、〔じつ〕と瞬間に、さう観やぶつてゐた。
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