吉川英治『三国志(新聞連載版)』(642)一帆(いつぱん)呉へ下る(四)
昭和16年(1941)10月21日(火)付掲載(10月20日(月)配達)
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やがて魯粛は賓閣へ迎へられた。彼は、劉琦に弔慰を述べ、玄徳には礼物を贈つて、
「呉主孫権からも、くれ/゛\よろしく申されました」
と、まづは型の如き使節ぶりを見せた。
後、後堂で酒宴となり、こんどは玄徳から遠来の労をねぎらつた。
魯粛は、酔ひ大いに発すると、玄徳へ向つて〔づけ〕/\訊ね出した。
「あなたは年来、曹操から眼の仇(かたき)にされて、彼と戦ひをくり返しておいでだから、よく御存じであらうが——いつたい曹操といふ者は、天下統一の大野心を抱(いだ)いてゐるのでせうか、それとも慾心はたゞ自己の繁栄に止(とゞ)まつてゐる程度でありませうか」
「さあ?……どうであらう」
「彼の帷幕ではいま、誰(たれ)と誰とが、もつとも曹操に用ひられてをりませうな」
「よく知らぬが」
「では——」と、魯粛はたゝみかけて「曹操の持つ総兵力といふものは、実際のところ、どのくらゐでせう」
「その辺も、よく辨(わきま)へぬ」
何を問はれても、玄徳は空〔とぼけ〕てゐた。これは孔明の忠告に依るものだつた。
魯粛は少し色をなして、
「新野、当陽そのほか諸所において、曹操と戦つて来たあなたが、敵に就(つい)て、何の知識もない理由(わけ)はないでせう」
と、詰問(なじ)ると、玄徳はなほ茫漠たる面(おもて)をして、
「いや、いつの戦ひでも、こちらは、曹操来ると聞けば、逃げ走つてばかり居たので、委(くは)しいことはまつたく不明です。たゞ孔明なら少しは心得てゐるであらうが」
「諸葛亮はどこに居られますか」
「いま呼んでおひきあはせ致さうと考へてゐたところだ。誰(たれ)か、孔明を召(めし)連れて来い」
玄徳の命にひとりが立ち去つて行くと、やがて孔明もこゝへ姿をあらはして、物(もの)柔(やはら)かに席に着いた。
「亮先生。——自分は先生の実兄(このかみ)とは、年来の親友ですが」
と魯粛は、個人的な親しさを示しながら、彼に話しかけた。
「……ほ。兄の瑾をよく御存じですか」
と、孔明もなつかしげに瞳を細めた。
「されば、このたびの門出にも、お会ひして来ました。何やらお言(こと)伝(づて)でも承はつて参りたいと存じたが、公(おほやけ)の御使、わざと差(さし)控えて来ましたが」
「いや、餘事は措いて、時に、わが主玄徳におかれては、豫(かね)てより呉の君臣に交友を求め、相携へて曹操を討たんと欲しられてゐますが、貴下のお考へでは如何であらうか」
「さあ、重大ですな」
「自惚(うぬぼ)れではありませんが、呉もまたわれ/\と結ばなければ、存立にかゝはりませう。もしわが主玄徳が、一朝に意気地を捨てゝ、曹操につけば、是(こ)れ自己の保身としては、最善でせうが、呉にとつては脅威でせう。南下の圧力は倍加するわけですから」
ことばは鄭重だがその言外に大国の使臣を強迫してゐるのである。魯粛は恐れざるを得なかつた。孔明のいふやうな場合が実現しない限りもないからである。
「自分は呉の臣ですが——劉皇叔のために——個人としてこゝだけの事を云へば、貴国の交渉如何によつては、わが主孫権も決して動かないことはなからうと信じられます。たゞ、その使節は大任ですが」
「では、脈があるといふわけですな」
「まあ、さうです。幸(さいはひ)、亮先生の兄上は、呉の参謀であり、主君の御信頼もふかいお方ですから、ひとつ先生自身、呉へ使されたらどうかと思ひますが」
側で聞いてゐた玄徳は顔のいろを失つた。呉の計略ではないかと考へたからである。魯粛がすゝめれば勧めるほど、彼は許す気色もなかつた。
孔明は、宥(なだ)めて、
「事すでに急を要します。信念をもつて行つて来ます。どうかお命じください」
と、再三、許しを仰いだ。そして数日の後には、つひに魯粛と共に、下江の船に乗ることを得た。
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