吉川英治『三国志(新聞連載版)』(641)一帆(いつぱん)呉へ下る(三)
昭和16年(1941)10月19日(日)付掲載(10月18日(土)配達)
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魯粛は慎重に、孫権の諮問にこたへた。
「劉表の喪を弔(とむら)ふといふ名目をもつて、私が荊州へ御使(おつかひ)に立ちませう」
「——そして?」
「帰途ひそかに江夏へ赴き、玄徳と対面して、よく利害を説き、彼に援助を与へる密約をむすんで来ます」
「玄徳を援助したら、曹操は怒(いか)つて、いよ/\鋭鋒を呉へ向けて来るだらう」
「いや、ちがひます。玄徳の勢が衰退したので、曹操はたちまち呉へ大軍を転じて来たものです。故に、玄徳が強力となれば、背後の憂(うれひ)がありますから、曹操は決して、思ひ切つた侵攻を呉へ試みることはできません」
魯粛は、なほ説いて、
「私が御使に立てば、それらの大策の決定は後日に譲るまでも、とにかく荊州から江夏に亙(わた)る曹操、玄徳、両方の実状をしかとこの眼で見てくるつもりです。それも重要な前提ですから」
と、云つた。
呉の国のうごきは今、呉自身の浮沈を決する時であると共に、曹操の大軍にも、江夏の玄徳の運命にも、かうして重大な鍵をもつてゐた。
江夏の城中にあつても、その事について、度々、評議するところがあつたが、孔明はいつも、
「呉は遠く、曹は近く、結局われ/\の抱く天下三分の理想——すなはち三国鼎立の実現を期するには、飽(あく)まで遠い呉をして近い曹操と争はせなければなりません。両大国を相(あい)搏(う)たせて、その力を相殺させ、わが内容を拡充する。真の大策を行ふのはそれからでせう」
と、至極、穏当な論を述べてゐた。
「だが、さううまく、こちらの望みどほりにゆけばよいが?」
と、これは、玄徳だけの懐疑ではない。誰しも一応はさう考へる。
これに対して、孔明は、
「ごらんなさい。今にきつと呉から使者が来るにちがひありません。然るときは、わたくし自身、一帆の風にまかせて、呉国へ下り、三寸不爛の舌をふるつて、孫権と曹操を戦はせ、しかも江夏の味方は、その何(いづ)れにも拠らず、一方の亡(やぶ)れるのを見てから、遠大にしてなほ万全な大計の道をおとりに成るやうにして見せます。——戦はゞ必ず勝つ戦ひを戦ふこと、三歳の児童も知る兵法の初学です」
——かう聞いても、人々はなほ釈然となれなかつた。むしろ不安にさへなつた。
「孔明は何か非常な奇蹟でもあらはれるのをそら恃(だの)みにして、あんな言を吐いてゐるのではないか」
そう思はれる節(ふし)がないでもないからである。
ところが、その奇蹟は、数日の後、ほんたうに江夏を訪れて来た。
「呉主孫権の名代(メウダイ)(ママ)として、故劉表の喪を弔ふと称し、重臣魯粛と申される方の船が、いま江頭に着きました」
と、いふ知らせが、江岸の守備兵から城中へ通達されて来たのである。
「どうして軍師には、この事あるを、あゝ疾(はや)くからお分りになつてをられたのか?」
騒(ざわ)めく人々の問ひに、孔明は、
「いかに強大な呉国でも、常勝軍と誇る曹兵百万が、南下するに会つては、戦慄せざるを得ないに極(きま)つてゐる。加ふるに呉は富強ではあるが実戦の体験が少い。境外の兵備の進歩やその実力を測り知つてをらぬ。——で、一(ひと)先(ま)づは、使者を派して、君玄徳を説きつけ、飽(あく)まで曹操の背後を衝かせて置くの策を考へるものと私は観た」
と語り——また劉琦を顧みて、劉表(ママ。孫策の誤りか)が死んだ時、荊州から弔問の使者が会葬に来た(ママ。行った)か否かをたづねて、琦が、その事なしと答へると
「それごらんなさい。呉と荊州とは、累代の仇(あだ)。今それをも捨てゝ使者をよこしたのは、喪を弔ふの使ではなく、実は虚実をさぐる為の公然なる密命大使であることが、その一事でも明かでせう」
と、笑つて説明した。
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