吉川英治『三国志(新聞連載版)』(640)一帆(いつぱん)呉へ下る(二)
昭和16年(1941)10月17日(金)付掲載(10月16日(木)配達)
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危急に迫つて、援軍を恃(たの)んでも、援軍の間に合ふ場合は少いものであるが、それの間に合つたのは、やはり孔明自身行つて、関羽や劉琦をよく動かしたからであらう。
しかし、それを審(つぶ)さに語るとなると、自分の口から自分の功を誇るやうなものになるので、孔明は
「さし当つて、次の策こそ肝腎です。夏口(漢口附近)の地は要害で水利の便もありますから、ひとまづ彼処(かしこ)の城にお入りあつて、曹操の大軍に対し、堅守して時節を待たれ、また劉琦君にも江夏の城(武昌)へお帰りあつて、わが君と首尾相助けながら、共に武具兵船の再軍備にお励みあるが万全の計でせう」
と、まづ将来の方針を示した。
劉琦は、同意したが、
「それよりも、もつと安全なのは、ひとまづ玄徳どのを、私の江夏城へお伴(つ)れして、充分に装備をしてから、夏口へお渡りあつては如何ですか。——いきなり夏口へ入られるよりもその方が危険がないと思はれますが」
と、一応自分の考へも述べた。
玄徳も孔明も、
「それこそ、然るべし」
と、意見は一致し、関羽に手勢五千を付けて、先に江夏の城へ遣(や)つた。そして何等の異変もないと確めて後、玄徳や孔明、劉琦などは前後して入城した。
かうして、すでに長蛇を逸し去つた曹操は、ぜひなく途中に軍の行動を停止して、各地に散開した追撃軍を漢水の畔(ほとり)に糾合したが、
「他日、玄徳が江陵に入つては一大事である」
と、更に湖南へ下つてそこを奪ひ、一部の兵を留めて、すぐ荊州へ引つ返して来た。
荊州には、鄧義(トウギ)とか劉先(リウセン)などゝいふ旧臣が守つてゐたが、もう幼主劉琮は殺され、襄陽は墜(お)ち、軍民すべて曹操の下に服してしまつてゐるので、
「もはや誰のために戦はう」
と、城門をひらいてことごとく曹操に降服してしまつた。
曹操は荊州に居すわつて、いよいよ対呉政策に乗(のり)出した。
——呉を如何にするか。
これは多年の懸案である。しかもこの対策に成功しなければ、絶対に統一の覇業は完成しないのである。
「檄文(ゲキブン)を作れ」
荀攸(ジユンシウ)に命じて、檄を書かせた。もちろんそれは呉へ送るものである。
いま、玄徳、孔明の輩(ともがら)は、その餘命をわづかに江夏、夏口に拠(よ)せて、なほ不逞な乱を企(くわだ)てをる。余、三軍をひきゐて、疾(と)くこれに游漁(イウリヨ)す。君も呉軍をひきゐて、この快游を共にし給はずや。漁網の魚(うを)は、これを採つて一(イツ)盞(サン)の卓にのぼせ、地は割譲(わけ)て、ながく好誼(よしみ)をむすぶ引出物としようではないか。
といふ意味のものだつた。
たゞし曹操としても、こんな一片の文書だけで、呉が降参して来ようなどゝは決して期待してゐない。いかなる外交もその外交辞令の手もとに、
(これがお嫌(いや)なら、またべつな御挨拶を以て)と云へる「実力」が要(い)る。彼は呉へ檄を送ると同時に、その実力を水陸から南方へ展開した。
総勢八十三万の兵を、号して百万と称へ、西は荊陜(ケイセン)から東は蘄黄(キクワウ)にわたる三百里のあひだ、烟火(エンクワ)連連と陣線をひいて、呉の境を威圧した。
この時、呉主孫権も、隣境の変に万一あるをおそれて、柴桑城(サイサウジヤウ)(廬山、鄱陽湖の東南方)まで来てゐたが、事態いよ/\たゞならぬ形勢となつたので、
「今こそ、呉の態度を迫られる時が来た。曹操についたが得策か、玄徳と結んだがよいか。こゝの大方針は呉の興亡を決するものだ。乞ふ、そちの信じるところを忌憚(キタン)なく聞かしてくれい」
呉の大賢といはるゝ魯粛は、孫権から直々(ヂキ/\)にかう問はれた。
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次回 → 一帆呉へ下る(三)(2025年10月16日(木)18時配信)
昭和16年(1941)10月18日(土)付の夕刊は、前日(配達日)の10月17日(金)が祝日(神嘗祭)のため休刊でした。これに伴い明日の配信はありません。

