吉川英治『三国志(新聞連載版)』(639)一帆(いつぱん)呉へ下る(一)
昭和16年(1941)10月16日(木)付掲載(10月15日(水)配達)
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玄徳の生涯のうちでも、この時の敗戦行は、大難中の大難であつたといへるであらう。
曹操も初めのうちは、部下の大将に追撃させておいたが、
「今を措(お)いて玄徳を討つ時はなく、こゝで玄徳を逸したら野に虎を放つやうなものでせう」
と、荀彧等にも励まされてか、俄然数万騎を増派して、みづから下知に当り、
「どこまでも」
と、その急追を弛(ゆる)めないのであつた。
ために玄徳は、長坂橋(湖北省・当陽・宜昌の東十里)附近でもさんざんに痛めつけられ、漢江の渡口まで追ひつめられて来た頃は、進退まつたく窮(きは)まつて、
「わが運命もこれまで——」
と、観念するしかないやうな状態に陥つてゐた。
ところが、こゝに一陣の援軍があらはれた。さきに命をうけて江夏へ行つてゐた関羽が、劉琦から一万の兵を借りることに成功して夜を日についで馳けつけ、漢江の近くで漸く玄徳に追ひついて来たものであつた。
「あゝまだ天は玄徳を見捨て給はぬか」
かうなると人間はたゞ運命にまかせてゐるしかない。一喜一憂、九死一生、まるで怒濤と暴風の荒海を行くても知れず漂つてゐるやうな心地だつた。
「ともあれ、一刻も早く」
と、関羽の調(とゝの)へてくれた船に乗つて、玄徳たちは危い岸を離れた。——その船の中で、関羽は糜夫人の死を聞いて、大いに嘆きながら、
「むかし許田の御狩(みかり)に会し、それがしが曹操を刺し殺さうとしたのを、あの時、あなた様が強(た)つてお止めにならなければ、今日、こんな難儀にはお会ひなさるまいものを」
と、彼らしくもない愚痴をこぼすのを、玄徳はなだめて、
「いや、あの時は、天下のために、乱を醸すまいと思ひ、また曹操の人物を惜(をし)んで止めたのだが——もし天が正しきを助けるものなら、いつか一度は自分の志もつらぬく時節が来るだらう」
と、云つた。
するとその時、江上一面に、喊(とき)の声や鼓の音が起つて、河波をあげながらそれは徐々に近づいて来る様子だつた。
「さては、敵の水軍」
と玄徳も色を失ひ、関羽もあわてゝ、船の〔みよし〕に立つて見た。
見れば彼方から蟻(あり)のやうな船列が順風に帆を張つて来る。先頭の一艘はわけても巨大である。程なく近々と白波をわけて進んで来るのを見ると、その船上には、白い戦袍(ひたたれ)へ銀の甲鎧(よろひ)を扮装(いでた)つた清々(すが/\)しい若武者が立つてゐて、しきりと此方(こなた)へ向つて手を打(うち)振つてゐる。
「叔父(シユクフ)、叔父。御無事ですか。さきにお別れしたきり小姪(セウテツ)の疎遠、その罪まことに軽くありません。ただゞ今、お目にかかつてお詫び申すつもりです」
彼の声もやがて聞えて来た。すなはち江夏城から来た劉琦なのである。
玄徳、関羽のよろこびはいふ迄(まで)もない。舷々(ゲン/\)相触れると、玄徳は琦の手をとつて迎へ入れ、
「よくこそ、私の危急に、馳けつけて下すつた」
と、涙にくれた。
又、数里江上を行くと、一(ひと)簇(むれ)の兵船が飛ぶが如く漕ぎよせてきた。——一艘の舳(みよし)には、綸巾(リンキン)鶴氅(カクシヨウ)(ママ)の高士か武将かと疑はれるやうな風采の人物が立つてゐた。すなはち諸葛亮孔明だつた。
ほかの船には、孫乾(ソンカン)も乗つてゐた。——一体どうしてこゝへは?人々が怪んで問ふと、孔明は微笑して、
「およそこの辺にゐたら、各々と落合へるであらうかと、夏口の兵を少し募つて、お待ちしてゐただけです」
と、餘り多くを語らなかつた。
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