吉川英治『三国志(新聞連載版)』(635)長坂橋(ちやうはんけう)(一)
昭和16年(1941)10月11日(土)付掲載(10月10日(金)配達)
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この日、曹操は景山(ケイザン)の上から、軍(いくさ)の情勢をながめてゐたが、ふいに指さして、
「曹洪、曹洪。あれは誰だ。まるで無人の境を行くやうに、わが陣地を駆け破つて通る不敵者は?」
と、早口に訊ねた。
曹洪を初め、そのほか群将もみな手を眉に翳(かざ)して、誰か彼かと、口々に云ひ囃(はや)してゐたが、曹操は焦(じ)れツたがつて、
「早く見届けてこい」
と、ふたゝび云つた。
曹洪は馬をとばして、山を降(くだ)ると、道の先へ駆けまはつて、彼の近づくのを見るや、
「やあ。敵方の戦将。ねがはくば、尊名を聞かせ給へ」
と、呼ばはつた。
声に応じて、
「それがしは、常山の趙子龍。——見事、わが行く道を、立ち塞がんとせられるか」
と、青釭の剣を持ち直しながら趙雲は答へた。
曹洪は、急いで後へ引つ返した。そして曹操へその由を復命すると、曹操は膝を打つて、
「さては、かねて聞く趙子龍であつたか。敵ながら目ざましい者だ。まさに一世の虎将といへる。もし彼を獲(え)て予の陣に置くことができたら、たとへ天下を掌(て)に握らないでも、愁ひとするには足らん。——早々(はや/゛\)、馬をとばして、陣陣に触れ、趙雲が通るとも、矢を放つな、石弩(セキド)を射るな、たゞ一騎の敵、狩猟(かり)するやうに追ひ包み、生け擒(ど)つてこれへ連れて来いと伝へろ!」
鶴の一声である。諸大将は、はつと答へて、部下を呼び立てた。——忽ち見る、十数騎の伝令は、山の中腹から逆落しに駆け降(くだ)ると、すぐ八方の野へ散つて馬けむりをあげて行く。
真の勇士、真の良将を見れば、敵たることも忘れて、それを幕下に加へようとするのは、由来、曹操の病といつていゝほどな持前である。
彼の場合は、士を愛するといふよりも、士に恋するのであつた。その情熱は非常な自己主義でもあり、盲目的でもあつた。さきに関羽へ傾倒して、あとではかなり深刻に後悔の臍(ほぞ)を嚙んでゐるはずなのに、この日また常山の子龍と聞いて、たちまち持前の人材(人材)蒐集(シユウシユウ)慾(ヨク)をむら/\と起したものであつた。
趙雲にとつて、また無心の阿斗にとつて、これもまた天佑にかさなる天佑だつたといへよう。
行く先々の敵の囲みは、まだ分厚いものだつたが、趙雲は甲(よろひ)の胸当の下に、三歳の子をかゝへながら、悪戦苦闘、次々の線を駆け破つて——敵陣の大旆(おほはた)を切り仆すこと二本、敵の大矛(おほほこ)を奪ふこと三(み)条(すじ)、名ある大将を斬り捨てることその数も知れず、しかも身に一矢一石(イツシイツセキ)をうけもせず、遂に、さしもの曠野をよぎり抜けて、まづはほつと、山間(やまあい)の小道まで辿(たど)りついた。
するとこゝにも、鍾縉(セウシン)(ママ)、鍾紳(セウシン)(ママ)と名乗る兄弟が、ふた手に分かれて陣を布(し)いてゐた。
兄の縉は、大斧をよくつかひ、弟の紳は方天戟の妙手として名がある。兄弟しめし合せて、彼を挟み討ちに、
「のがれぬ所だ。はやく降(くだ)れ」
と喚(をめ)きかゝつた。
更に、張遼の大兵、許褚の猛部隊も、彼を生け擒りにせんものと、大雨のごとく野を掃いて追つて来た。
「——あれに追ひつかれては」
と、趙雲も今は、死か生かを、賭するしかなかつた。
恐らく彼にしても、この二将を斃(たふ)したのが最後の頑張りであつたらう。前後して縉と紳の二名を斬りすてたものゝ、気息は奄々(えん/\)とあらく、満顔全身、血と汁にまみれ、彼の馬もまたよろ/\に成り果てゝ、辛(から)くも死地を脱することができた。
そして漸く長坂坡まで来ると、彼方の橋上に、今なほたゞ一騎で、大矛を横たへてゐる張飛の姿が小さく見えた。
「おゝーいつ。張飛つ」
思はず声を振りしぼつて彼が手をあげた時である。執念ぶかい敵の一群は、もう戦ふ力もない趙雲へふたゝび後から襲ひかゝつた。
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