吉川英治『三国志(新聞連載版)』(633)宝剣(二)
昭和16年(1941)10月9日(木)付掲載(10月8日(水)配達)
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青釭の剣。青釭の剣。
趙雲は狂喜した。
かゝる有名な宝剣が、はからずも身に授からうとは。
「これは、天授の剣だ」
背へ斜めにそれを負ふやいな、趙雲はふたゝび馬へ跳びのつて、野に満つる敵の中へ馳駆して行つた。
そのとき曹操の軍兵はすでに視野のかぎり殺到してゐた。逃げおくれた百姓の老幼や、離散した玄徳の兵を、殺戮して餘すところがない。趙雲は義憤に燃ゆる眦(まなじり)をあげて、
「鬼畜め」
むらがる敵を馬蹄の下に蹂躙(ジウリン)しながら、猶(なほ)も、声をからして、
「お二方あつ。お二方はいづこに」
と、糜夫人と幼主阿斗の行方を尋ねまはつてゐた。
すでに八面とも雲霞の如き敵影だつたが、彼は還ることを忘れてゐた。すると、傷を負つて、地に仆(たふ)れてゐた百姓の一人が、〔むく〕と首を上げて、彼へ叫んだ。
「将軍々々。その糜夫人かも知れませんよ。左の股(もゝ)を敵に突かれ、彼方の農家の破墻(やれがき)の陰へ、幼児(をさなご)を抱いて、仆れてゐる貴夫人があります。すぐ行つてごらんなさい。つい今し方のことですから」
指さして教へ終ると、そのまゝ百姓は息が絶えた。
趙雲は、飛ぶが如く、彼方へ駆けて行つた。なかば兵火に焼かれた〔あばら〕家が、裏の墻(かき)と納屋とを残して焦げてゐた。馬を降りて、其処(そこ)彼処(かしこ)を見まはしてゐると、破墻(やれがき)の陰で、幼児(をさなご)の泣声がした。
「おうつ、和子(わこ)様つ」
彼の声に、枯草を被(かぶ)つて潜んでゐた貴夫人は、児(こ)を抱いたまゝ逃げ走らうとした。しかし身に深傷を負つてゐるとみえて、すぐ〔ばたり〕と仆れた。
「糜夫人ではありませんか。家臣の趙雲です。お迎へに来ました。もう御心配はありません」
「……おゝ、趙雲でしたか。……うれしい。どうか、和子のお身をわが良人(つま)の許へ、つゝがなく届けて下さい」
「固(もと)よりのこと。いざ、貴女(あなた)様にも」
「いゝえ!……」
彼女は、強く〔かぶり〕を振つた。そして阿斗の体を、趙雲の手へあづけると、急に、張りつめてゐた気もゆるんだか、〔がく〕と俯(うつぶ)して、
「この痛手、この痛手。……たとへふたゝび良人(つま)の許へ還つても、もう妾(わらは)の生命(いのち)はおぼつかない。もし妾の為に、将軍の馬を取つたら、将軍は和子を抱(いだ)いて、敵の中を、徒歩(かち)で行かねばならないでせう。……もう我身などにかまはず、少しも早く和子のお身をこの重囲の外へ扶け出して下さい。それが頼みです。臨終(いまは)の際(きは)のおねがひです」
「えゝ!お気の弱い!たとへ馬はなくとも、趙雲がお護りして行くからには」
「オヽ……喊(とき)の声がする。敵が近づいて来るらしい。趙雲、何でそなたは、大事な若君を預りながら、なほ迷つてゐるか。早くこゝを去つてたも。……妾(わらは)などは見捨てゝ」
「どうして、貴女(あなた)様おひとりを、こゝに残して立(たち)去れませう。さ、その馬の背へ」
駒の口輪を取つて引(ひき)寄せると、糜夫人は突如身をひるがへして、傍らの古井戸の縁(ふち)へ臨みながら、
「やよ趙雲。その子の運命は将軍の手にあるものを。妾に心をかけて、手のうちの珠(たま)を砕いて賜(たも)るな」
云ふやいな、みづから井戸の底へ、身を投げてしまつた。
趙雲は、声をあげて哭いた。草や墻(かき)の板を投げ入れて、井戸を蔽(おほ)ひ、やがて甲(よろひ)の紐を解いて、胸当の下に、確乎(しつか)と、幼君阿斗のからだを抱きこんだ。
阿斗は、時に、まだ三歳の稚(をさ)なさであつた。
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