吉川英治『三国志(新聞連載版)』(631)母子草(はゝこぐさ)(四)
昭和16年(1941)10月7日(火)付掲載(10月6日(月)配達)
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面目——面目——何の面目あつてこのまゝ主君にまみえん!
「生命(いのち)のある限りは」
と、趙雲は、わづか三十餘騎に討ち減らされた部下と共に、幾たびか敵の中へ取つて返し、
「二夫人は何処?幼君はいづれにお在(は)すぞ」
と、狂気のごとく、尋ねまはつてゐた。
さうして、四方八面、敵味方の境もなく、馳け巡(めぐ)つてゐる野にはまた、数万の百姓が、右往左往、或(あるひ)(ママ)は矢に中(あた)り、石に打たれ、又は馬に蹴られ、窪(くぼ)に転び落ちなど、さながら地獄図のやうな光景を描いてゐた。親は子を求め、子は親を呼び、女は悲鳴をあげて夫(つま)を追ひ、夫は狂奔して一家をさがし廻るなどと、その声は野に満ち、天を蔽(おほ)うばかりである。
「——やつ?誰か」
草の根に血は溝をなして流れてゐる。趙雲はふと見たものに、〔はつ〕として駒を下りた。
俯(う)つ伏してゐる武者がある。近づいて抱き起してみると、味方の大将、簡雍であつた。
「傷は浅いぞ、おうツいつ、簡雍つ——」
簡雍は、その声に、意識づいて、急にあたりを見廻した。
「あつ、趙雲か」
「どうした?確乎(しつかり)せい」
「二夫人は?……。幼主、阿斗の君は、どう遊ばされたか?」
「それは、俺から聞きたいところだ。簡雍、おぬしはこゝまで御(お)供(とも)して来たのか」
「むゝ、これまで来ると、一(イツ)彪(ペウ)の敵軍につゝまれ、俺は敵の一将を討ち取つて、御(お)車(くるま)の側へすぐ引つ返して来たが、——時すでに遅しで」
「や。生(いけ)擒(ど)りとなられたか」
「いや/\二夫人には、阿斗の君を抱き参らせて、御車を捨て、乱軍の中を、逃げ走つて行かれたと——部下のことばに、すは御危急と、おあとを追つて行かうとした刹那、流れ矢に中(あた)つたものか、後ろから斬りつけられたのか……その後は何もわからない、思ふに、気を失つて居たとみえる」
「かうしては居られぬ。——簡雍、おぬしは君のおあとを慕つて急げ」
と、趙雲は彼を扶けて、駒の背に搔(か)い上げ、部下を付けて先へ送らせた。
そして、彼自身は、
「たとへ、天を翔け、地に入るとも、御眷族の方々を探し当てぬうちは、やはか再び、君の御馬前にひざまづかうぞ」
と、愈々(いよ/\)、鉄の如き一心をかためて、長坂坡の方へ馬を飛ばしてゐた。
一隊の兵がうろ/\してゐた。手をあげて、
「趙将軍。趙将軍」
と、彼を見かけて呼ぶ。
それは、車を推す役目の歩卒たちである。趙雲は、振り向きざま、
「夫人のお行方を知らぬか」
と、たづねた。
車兵(シヤヘイ)はみな指を南へさして、
「二夫人には、御髪をふりさばき、跣足(すあし)のまゝで、百姓共の群に交り、南へ南へ、人浪にもまれながら逃れておいでになりました」
と、悲しげに訴へた。
「さては」
と趙雲は、猶(なほ)も馬を飛ばすこと宙を行くが如く、百姓(ヒヤクシヤウ)の群を見る毎(ごと)に、
「二夫人はお在(は)さぬか。幼君はおいでないか」
と、声を嗄(か)らしながら馳けて行つた。
すると又、数百人の百姓老幼の一群に会つた。趙雲が馬上から同じことばを声かぎりくり返すとわつと泣き放ちながら、馬蹄の前に転び伏した人がある。
甘夫人であつた。
趙雲は、あなやと驚いて、鎗を脇に挟んで鞍から飛び降りざま、夫人を扶け起して詫びた。
「かゝる難儀な目にお遭はせ申しましたのも、まつたく臣の不つゝかが致した事、何とぞお怺(こら)へくださいまし。して/\また、糜夫人と阿斗の君のお二方には、何処においで遊ばしますか」
「若君や糜夫人とも、初めはひとつに逃げのびてゐたが、やがて一手の敵兵に駈け散らされ、いつか迷(はぐ)れてしまうたまゝ……」
涙ながら甘夫人が告げてゐるまに、辺りの百姓たちはまた、騒然と群を崩して、蜘蛛(くも)の子のやうに逃げ出した。
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