吉川英治『三国志(新聞連載版)』(630)母子草(はゝこぐさ)(三)
昭和16年(1941)10月5日(日)付掲載(10月4日(土)配達)
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しかし、張飛の力も、無限ではない。結局、一方の敵軍を、喰ひ止めてゐるに過ぎない。
その間に、猶(なほ)も、玄徳を目がけて、
「遁(のが)さじ」
「やらじ」
と、駆け追ひ、駆け争つて来る敵は、際限もなかつた。逃げ落ちて行く先々を、伏兵には待たれ、矢風は氷雨(ひさめ)と道を横ぎり、玄徳はまつたく昏迷に疲れた。睫毛(まつげ)も汗に濡れて、陽も晦(くら)い心地がした。
「噫(あゝ)。——もう息もつかぬ」
われを忘れて、彼は敢て馬から辷(すべ)り降りた。五体は綿のごとく知覚もない。
「……おゝ」
見まはせば、随(つ)き従ふ者共も、百餘騎しかゐなかつた。彼の妻子、老少を初め、糜竺、糜芳、趙雲、簡雍そのほかの将士はみな何処で別れてしまつたか、悉(こと/゛\)く散々(ちり/゛\)になつてゐたのである。
「百姓たちは何(ど)うしたか。妻子従者の輩(ともがら)も、一人も見えぬは如何(いか)にせしぞ。たとひ木石の木偶(でく)なりと、これが悲しまずにをられようか」
玄徳はさう云つて、涙を流し、果(はて)は声をはなつて泣いた。
——ところへ……糜芳が満身(マンシン)朱(あけ)にまみれて、追ひついて来た。身に立つてゐる矢も抜かず、玄徳の前に膝まづいて、
「無念です。趙雲子龍までが心がはりして、曹操の軍門に降りました」
と、悲涙をたゝへて訴へた。
「なに、趙雲が変心したと?」玄徳は、鸚鵡(オウム)返しに叫んだが、すぐ語気を更(か)へて、糜芳を叱つた。
「ばかなことを!趙雲とわしとは、艱難を共にして来た仲である。彼の志操は清きこと雪の如く、その血は鉄血のやうな武人だ。わしは信じる。なんで彼が富貴に眼を晦(くら)まされて、その志操と名を捨てよう!」
「いえ/\、事実、彼が味方の群れを抜けて、驀地(まつしぐら)に、曹軍の方へ行くのを、この眼で見届けました。確かに見ました」
すると、横合ひから、
「さてこそ。ほかにもそれを、見たといふ声が多い」
と、呶鳴つて、糜芳のことばを、支持したものがある。
殿軍(しんがり)を果(はた)して、今こゝへ、追ひついて来た張飛だつた。
気の立ツてゐる張飛は、眦(まなじり)を裂いて云ふ。
「よしつ。もう一度引つ返して、事実とあれば、趙雲を一(ひと)鎗(やり)に刺し殺してくれねばならん。君には、どこぞへ身をかくして、しばしお体をやすめて居て下さい」
「否々(いな/\)。それには及ばぬ、趙雲は決してこの玄徳を捨てるやうな者ではない。やよ張飛、逸(はやま)つたこと致すまいぞ」
「何の!知れたものではない」
張飛はつひに肯(き)かなかつた。
二十騎ばかりの部下をひきつれ、再びあとへ駆け出して行く。すると一(イツ)河(カ)の水に、頑丈な木橋(モクキヤウ)(ママ)が架かつてゐた。
長坂橋(チヤウハンキヤウ)(ママ)——とある。
橋東の岸に密林があつた。張飛は部下に何かさゝやいて、二十騎を林にかくした。部下は彼の策に従つて、各々馬の尾に木の枝を結ひつけ、がさ/\と林の中を〔のべつ〕往来してゐた。
「どうだ、この計(はかり)ごとは。まさか二十騎とは思ふまい。四、五百騎にも見えようが」
北(ほく)叟(そ)笑(ゑ)みして、彼はたゞ一人、長坂橋の上に馬を立てた。そして大矛(おおほこ)を小脇に横たへ、西の方を望んでゐた。
——ところで、噂の趙雲は、どうしたかといふに。
彼は襄陽を立つときから、主君の眷属(ケンゾク)二十餘人とその従者や——わけても甘夫人だの、糜夫人だの、また幼主阿斗などの守護をいひつけられてゐたので、その責任の重大を深く感じてゐた。
ところが、前夜の合戦と、それからの潰走中に、幼主阿斗、二夫人を初め、足弱な老幼は、あらかた闇に見失つてしまつたのである。
趙雲たるもの、何で、そのまゝ先を急がれよう、彼は、血眼(ちまなこ)となつて、
「君にお合せする顔はない」
と、夜来、敵味方の中を、差別なく駈けまはつて、その方々の行方をさがしてゐたのだつた。
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なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

