吉川英治『三国志(新聞連載版)』(629)母子草(はゝこぐさ)(二)
昭和16年(1941)10月4日(土)付掲載(10月3日(金)配達)
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数万の窮民を連れ歩きながら、手勢はわづか二千騎に足らなかつた。
千里の野を、蟻の列が行くやうな旅だつた。道の捗(はかど)らないことは夥(おびたゞ)しい。
「江陵の城はまだか」
「まだ/\道は半ばにすぎません」
襄陽を去つてから、日はもう十幾日ぞ。——こんな状態でいつたい何日(いつ)江陵へ着くだらうと、玄徳も心ぼそく思つた。
「さきに江夏へ援軍をたのみにやつた関羽もあれきり沙汰がない。——軍師、ひとつ御身が行つてくれないか」
玄徳のことばに、孔明は、
「行つてみませう。どんな事情があるかわかりませんが、この際は、それしか恃(たの)む兵力はありませんから」
と、承知した。
「御辺が参つて、援軍を乞へば、劉琦君も決して嫌とは申されまい。——御辺の計らひで、継母蔡夫人の難からのがれた事も覚えてをられるだらうから……」
「では、こゝでお別れしませう」
孔明は兵五百をつれ、途中から道を更(か)へて、江夏へいそいだ。
孔明と別れてから二日目の昼である。ふと、一陣の狂風に野をふりかへると、塵埃(ヂンアイ)天日を掩(おほ)ひ、異様な声が、地殻の底に鳴るやうな気がされた。
「はて、にはかに馬の嘶(いなゝ)き躁(さわ)ぐのは——抑(そも)、何の兆(しるし)だらう」
玄徳がいぶかると、駒をならべてゐた糜芳、糜竺、簡雍等は、
「これは大凶の兆(しら)せです。馬の啼き声も常とはちがふ」
と呟いて、みな怖れ顫(ふる)へた。
そして、人々みな、
「はやく、百姓共の群を捨て先へお急ぎなさらねば、御身の危急」
と、口を揃へてすゝめたが、玄徳は耳にも入れず、
「——前の山は?」
と、左右に訊いた。
「前なるは、当陽県(とうようけん)の水、うしろなる山は景山(ケイザン)といひます」
ひとりが答へると、さらばそこ迄(まで)いそげと、婦女老幼の群(むれ)には趙雲を守りにつけ、殿軍(しんがり)には張飛をそなへて、更に落ちのびて行つた。
秋の末——野は撩乱(レウラン)の花と丈長き草に掩(おほ)はれてゐた。日もすでに暮れかけると、大陸の冷気は星を研(みが)き人の骨に沁みてくる。啾々(シウ/\)として、夜は肌の毛穴を凍らすばかりの寒さと変る。
真夜中のころである。
ふいに、人の哭(な)きさけぶ声が、曠野の闇をあまねく揺るがした。——と思ふまに、闇の一角から、喊声(カンセイ)枯葉を捲き、殺陣(サツヂン)は地を駆つて、
「玄徳を逃がすな」
と、耳を打つて来た。
あなや!とばかり玄徳は刎(は)ね起きて、左右の兵を一手にまとめ、生命(いのち)をすてゝ敵の包囲を突き破つた。
「わが君、わが君。——はやく東へ」
と、教へながら、防ぎ戦つてゐる者がある。見れば、後陣の張飛。
「たのむぞ」
あとを任せて、玄徳は逃げのびたが、やがて南のはう——長坂坡(チヤウハンハ)の畔(ほと)りにゐたると、こゝに一陣の伏兵あつて、
「劉豫州、待ちたまへ、すでに御運のつきるところ、潔く御首をわたされよ」
と、道を阻めて、名乗り立つた一将がある。
見れば、荊州の旧臣、文聘であつた。彼は、義を知る大将と、かねて知つてゐた玄徳は、
「おう足下は、荊州武人の師表といはれる文聘ではないか。国難に当るや直に国を売り、兵難に及ぶや忽ち矛(ほこ)を逆しまにして敵将に媚び、その走狗(いぬ)となつて、きのふの友に咬(か)みかゝるとは何事ぞ。その武者(ムシヤ)振(ぶり)の浅ましさよ。それでも足下は、荊州の文聘なるか」
と、罵つた。
——と、文聘は答へもやらず、面を赤らめながら遠く駆け去つてしまつた。次に、曹操の直臣許褚が玄徳へ迫つて来たが、その時はすでに張飛があとから追ひついてゐたので、辛くも許褚を追つて、一方の血路を切りひらき、無二無三、玄徳を先へ逃がして、なほ彼はあとに残つて、奮戦してゐた。
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