吉川英治『三国志(新聞連載版)』(628)母子草(はゝこぐさ)(一)
昭和16年(1941)10月3日(金)付掲載(10月2日(木)配達)
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于禁は四日目に帰つて来た。
そのあひだ曹操は落着かない容子に見えた。しきりに結果を待ちわびてゐたらしい。
「たゞいま立帰りました。遠く追ひついて、蔡夫人、劉琮ともに、かくの如く、首にして参りました」
于禁の報告に接して、初めてほつとした態(テイ)である。劉表の血族は、これで全く絶えたのだ。運の末こそ哀れである。——曹操は一言、
「よし」
と、云つたきりであつた。
また彼は、多くの武士を隆中に派して、孔明の妻や弟などの身寄を詮議させてゐた。
曹操が孔明を憎むことは一通りでなかつた。
「草の根を分けても、彼の三族を捕へて来い」
といふ厳命を発してゐる。命をうけた部将たちは、手下を督励して、かの臥龍岡の旧宅をはじめ近村あまねく捜し求めたが、どうしても知れなかつた。すでに孔明はこの事あるを知つて、家族を三江の彼方へ晦(くら)まし、里人も皆、彼の徳になづいてゐるので、曹操の捕手にたいして、何の手懸りも与へなかつた。
こんな事に暇どつてゐる一方、曹操は毎日、荊州の治安やら旧臣の処置やら、また賞罰の事、新令発布の事など、限(き)りもない政務に忙殺されてゐた。
「丞相。——お茶など献じませうか」と、或る折、侍側(ジソク)の荀攸は、わざと彼の繁忙を妨げて云つた。
「茶か。さうだな、一ぷく喫しやうか」
「忙裏(バウリ)の小閑(セウカン)は命(メイ)よりも尊し——とか。かういふ時、一(イツ)喫(キツ)の茶は、生命を潤(うるほ)します」
「ときに税務の処理は、片づいたか」
「税務よりは、もつと急がねばならない事がおありでせう」
「何ぢや、そんなに急を要する事とは」
「玄徳以下の者が、こゝを逃げ去つてから、もう十日餘りとなります。彼等がもし江陵の要害に籠り、そこの金銀兵糧などを手に入れたら如何なさいますか」
「あつ、さうだ!」
曹操は、突然、卓を打つて突つ立ちながら、
「忙に趁(を)はれ、些末に拘泥してをつて、つい大局を見失つてゐた。荀攸!なぜ其(その)方(ハウ)は、もつと早く余に注意しなかつたのだ」
「——でも、当の敵を、お忘れある筈はないと思つてゐましたから」
「ばかを云へ。かう忙しくては、誰しも、つい忘れる事だつてある。早く軍馬の用意を命じ玄徳を追撃させい」
「御命令さへ出れば、決してまだ手おくれではありません。玄徳は数万の窮民を連れてゐるので、一日の行程わづか十里といふ歩み方です。鉄騎数千、疾風のごとく追はせれば、おそらく二日のうちに捕捉することができませう」
荀攸はすぐ諸大将を城の内庭に集めた。令を下すべく曹操が立つて見わたすところ、荊州の旧臣中では、ひとり文聘の姿だけが見えなかつた。
「なぜ文聘はこれへ来ないか」
と、呼びにやると、漸く文聘はあとから来て、列将の端に立つた。
「何ゆえの遅参か。申しひらきあらば云へ」
曹操から譴責されて、文聘は、愁然とそれに答へた。
「理由はありません。たゞ恥かしいのです。故劉表に託されて、自分は常に漢川(カンセン)の境を守り、もし外敵の侵攻あるとも、一歩も敵に主君の地は踏ませじ——と誓つてゐたのに、事志とたがひ、遂に、今日の現実に直面するに至りました。——その愧(はぢ)を思へば、なんで人より先に立つて人なかへ出られませう」
さしうつ向いて、文聘は涙をたれた。曹操は感動して、
「いまの言葉は、真に国へ奉じる忠臣の声である」
と云つて、即座に彼の官職をひきあげて、江夏の太守(タイシユ)関内侯(クワンナイコウ)とした。
そして先(ま)づ、玄徳追撃の道案内として、文聘にそれを命じ、以下の大将に鉄騎五千をさづけて、
「すぐ行け!」
とばかり急(せ)きたてた。
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次回 → 母子草(はゝこぐさ)(二)(2025年10月3日(金)18時配信)

