吉川英治『三国志(新聞連載版)』(627)亡流(五)
昭和16年(1941)10月2日(木)付掲載(10月1日(水)配達)
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この日、曹操はよほど大満悦だつたとみえ、さらに、蔡瑁を封じて、平南侯(ヘイナンコウ)水軍大都督とし、また張允を助順侯(ジヨジユンコウ)水軍副都督に任命した。
ふたりは深く恩を謝して、自国の降服を、さながら自己の幸運のごとく欣然として帰つて行つた。
「丞相は餘りに人を識(し)らなすぎる。あんな諂佞(テンネイ)の小人に、高官を授けて、水軍をまかせるおつもりだらうか」
彼等の帰つたあとで、慨然と、憚(はゞか)らずかう放言してゐた者は、荀攸であつた。
曹操は、それを遠くで聞くと、ニヤと唇(くち)を歪めながら、荀攸の方を見て、
「われ豈(あに)人を識らざらんや!」
と、耳あらば聞けと云はぬばかりに云ひ返した。
「わが手の兵(つはもの)は、総(すべ)て北国そだちの野兵(ヤヘイ)山兵(サンペイ)ではないか。水利水軍の法、兵舷の構造改修など精(くは)しく知るものは殆(ほとん)どない。いまかりに彼等を水軍の大都督副都督とするも、用がすめばいつでも首にしてしまへばいゝ。——さりとは、荀攸も、人の肚(はら)の見えないやつだ」
面と向つて云はれたのとちがつて、これは却(かへ)つて耳に痛い。荀攸は閉口して、顔を赤らめながら姿をかくしてしまつた。
一方、蔡瑁と張允は、襄陽へ帰るやいな、蔡夫人と劉琮のまへに出て、
「上々の首尾でした。やがてはかならず、朝廷に奏請して、あなた様を王位に封(ハウ)じようなどと——曹丞相は上機嫌で申されました」
などゝ細々(こま/\)話した。
翌日、曹操は、襄陽へ入城すると布令(ふれ)て来た。蔡夫人は劉琮をつれて、江(カウ)の渡口(わたし)まで出迎へ拝礼して、城内へみちびいた。
この日、襄陽の百姓は、道に香華(カウゲ)をそなへて、車を拝し、荊州の文武百官もこと/゛\く城門から式殿の階下まで整列して、曹操のすがたを拝した。
曹操は、中央の式殿に、悠揚と陣座をとつて、腹心の大将や武士に、十重(とへ)二十重(はたへ)、護られてゐた。
蔡夫人は、子の劉琮に代つて、故劉表の印綬と兵符とを、錦の布(きれ)につゝんで、曹操の手へあづけた。
「神妙である。いづれ、劉琮には、命じるところがあらう」
曹操は、それを納め、諸員、万歳を唱へて、入城の儀式はまづ終つた。式がすむと彼は、まづ荊州の旧臣中から蒯越をよび出して、
「余は、荊州を得たことを、さして喜ばんが、いま足下を得たことを、衷心からよろこぶ」
と云つて——江陵の太守(タイシユ)樊城侯(ハンジヤウコウ)に封じた。
以下、旧重臣の五人を列侯に封じ、また王粲(ワウサン)や傅巽(フセン)(ママ)を関内侯に封じた。
それから、漸く、劉琮にむかつて、
「あなたは、青州へ行くがよい。青州の刺史にしてあげる」
と至極、簡単に命じた。
劉琮は、眉を悲しませて、
「わたくしは、官爵に望みはありません。たゞいつまでも亡父(ちち)の墳墓のあるこの国に居たい」
と、哀訴した。
曹操は、膠(にべ)もなく、かぶりを振つて、
「いや/\、青州は都に近い良い土地がら、御成人ののちは、朝廷へすゝめて、官人にしてあげる用意ぢや。黙つて赴(ゆ)かれるがいい」
と、突つ放した。
ぜひなく、劉琮は母の蔡夫人と共に、数日の後、泣く/\も生れ故郷の国土をはなれた。そして青州への旅へ立つたが、変り易(やす)い人ごゝろといふものか、隨(つ)き従ふ供の者とて幾人もなく、たゞ王威といふ老将が少しばかり郎党を連れて、車馬を守つて行つたきりだつた。
そのあとである。曹操はひそかに于禁をよんで、何か秘密な命令をさづけた。于禁は屈強なものばかり五百餘騎をひツさげて、直にあとを追ひかけた。
こゝ何川か、何とよぶ曠野か、名知らぬ草を、朱(あけ)にそめて、凄愴な殺戮は、彼等の手によつて決行された。——蔡夫人や劉琮の車駕へ、五百騎の兵が狼群のごとく噛みついたと思ふと、忽ち、昼間の月も血に黒ずんで、悲鳴絶叫が、水に谺(こだま)し、野を馳けまはつた。
老将王威もまた、大勢に囲まれて、敢(あへ)なく討死し、そのほか随身すべて、ひとりとして、生き残つた者もなかつた。
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