吉川英治『三国志(新聞連載版)』(626)亡流(四)
昭和16年(1941)10月1日(水)付掲載(9月30日(火)配達)
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【前回迄の梗概】
◇…三国統一の野望を抱く魏の曹操は百万の大軍を擁して南下して来た、荊州の幼主劉琮は奸臣蔡瑁の策に従ひ、戦はずして曹操の門に下らんとする。
◇…劉琮と同じ漢室の血を引く劉玄徳は一度は曹操を邀撃して大いに之を破るが、衆寡敵すべくもなく部下百姓を率ゐて亡流の身となる。
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落ちて行く敗残の境遇である。軍自体の運命すら危いのに、数万人の窮民をつれ歩いてゐたのでは、所詮、行動の取りやうもない。
「背に腹はかへられません」
孔明は諭すのであつた。玄徳の仁愛な心はよく解つてゐるが、その為、敵の殲滅(センメツ)に会つては、何の意味もないことになる。
「こゝは一時、涙をのんでも、百姓老幼の足手まとひを振(ふり)捨て、一刻もはやく江陵へ行き着いて、処置をお急ぎなさらなければ、遂に曹軍の好餌となるしかありますまい」といふのであつた。
が——玄徳は依然として、
「自分を慕ふこと、あだかも子が親を慕ふやうなあの領民を、なんで捨てゝ行かれようぞ。国は人をもつて本(もと)とすといふ。いま玄徳は国を亡(うしな)つたが、その本はなほ我にありといへる。——民と共に死ぬなら死ぬばかりである」
と云つて肯(き)かなかつた。
このことばを孔明から伝へ聞いて、将士も涙を流し、領民もみな哭(な)いた。
さらばと、——孔明もつひに心をきめて、領民たちに相互の扶助と協力の精神を徹底させ、一方、関羽と孫乾(ソンカン)に、兵五百を分けて、
「江夏にをられる嫡子劉琦君のところへ急いで、つぶさに戦況を告げ、江陵の城へお出会あるべしと、この書簡をとゞけられよ」
と、玄徳のてがみを授けて、援軍の急派をうながした。
さて又。
曹操はその中軍を進めて、宛城から樊城へ移つてゐた。
入城を終るとすぐ、書を襄陽へ送つて、
「劉琮に対面しよう」
と、申し入れた。
幼年の劉琮は怖ろしがつて、
「行くのはいやだ」
と、云つて肯(き)かない。そこで名代として、蔡瑁、張允、文聘の三人が赴くことになつたが、その際、劉琮へむかつて、そつと、すゝめたものがある。
「いま曹軍を不意に衝けば、きつと曹操の首を挙げることができます。すでに荊州は降参せりと、心に驕(おご)りきつて油断してをりますから。——そこで、天下は荊州になびきませう。こんな絶好な機会などゝいふものは、二度とあるものではありません」
これが蔡瑁の耳に入つたので、調べてみると、王威の進言だと分つた。
蔡瑁は怒つて、
「無用な舌を弄して、幼少の君を惑はすもの」
と、斬罪にしようとしたが蒯越のいさめに依つて、漸く事なく済んだ。
こんな内輪揉めがあつたのも、過日来、玄徳同情者の裏切や脱走が続いて以来その後も、藩論(ハンロン)区々(まち/\)にわかれ、武官文官の抗争があり、それに閨閥(ケイバツ)や党派の対立もからまつて、荊州は今や未曽有な動揺をその内部に蔵してゐたからである。
しかし蔡瑁は強引に、この内部混乱を、曹操との講和によつて、率ゐて行かうと考へてゐた。——で、彼が曹操にまみえて、降服の礼を執ることや、実に低頭百拝、辞色諂佞(ジシヨクテンネイ)を極めたものだつた。
曹操は、高きに陣座して蔡瑁以下のものを、鷹揚(オウヨウ)に見おろしながら、
「荊州の軍馬、銭粮、兵船の量は、およそどのくらゐあるのか」
と、たづねた。
蔡瑁は、答へて、
「騎兵八万、歩卒二十万、水軍十万。また兵船は七千餘艘もあり、金銀兵粮の大半は、江陵城に蓄へ、そのほか各地の城にも、約一年餘づつの軍需は常備してあります」
と、つゝむ所もなかつた。
曹操は満足して、
「劉表は存命中、荊州王になりたがつてゐたが、つい成らずに死んだ。自分から天子に奏請して、子の劉琮は、いつかかならず王位に封(ハウ)じてやるぞ」
と、約束した。
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