吉川英治『三国志(新聞連載版)』(625)亡流(三)
昭和16年(1941)9月30日(火)付掲載(9月29日(月)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 亡流(二)
***************************************
左右の人々は〔おど〕ろいて玄徳を抱きとめた。
「死は易く、生は難し。元々、生きつらぬく道は艱苦の闘ひです。多くの民を見すてゝ、あなた様のみ先へ遁れようと遊ばしますか」
と、人々に嘆き諫められて、玄徳も漸く死を思ひ止まつた。
関羽は、逃げおくれた百姓の群れを扶(たす)け、老幼を守つて後から渡つて来た。かくて漸く皆、北の岸へ渡りつくや、休むまもなく、玄徳は襄陽へ急いだ。
襄陽の城には、先頃から幼国主劉琮、その母蔡夫人以下が、荊州から移駐してゐる。玄徳は、城門の下に馬を立て、
「賢姪(ケンテツ)劉琮、こゝを開けたまへ、多くの百姓共の生命(いのち)を救はれよ」
と、大音をあげた。
すると、答へはなくて、忽ち多くの射手が矢倉の上に現はれて矢を酬いた。
玄徳につき従ふ数万の百姓群の上に、その矢は雨の如く落ちて来る。悲鳴、慟哭、狂走、混乱、地獄のやうな悲しみに、地も空も晦(くら)くなるばかりだつた。
ところが、これを城中から見て餘りにもその無情なる処置に義憤を発した大将があつた。姓は魏延(ギエン)、字(あざな)は文長(ブンチヤウ)、突如味方のなかから激声をあげて、
「劉玄徳は、仁人である。故主の墳墓の土も乾かぬうちに、曹操へ降を乞ひ、国を売るの賊、汝等こそ怪(け)しからん。——いで、魏延が城門をあけて、玄徳を通し申さん」
と云ひ出した。
蔡瑁は仰天して、張允に、
「裏切り者を討て」
と命じた。
時すでに、魏延は部下をひきゐて、城門のはうへ殺到し、番兵を蹴ちらして、あはや吊橋(つりばし)を降ろし、
「劉皇叔!劉皇叔!はやこゝこより入り給へ」
と、叫んでゐる様子に、張允、文聘などが、争つてそれを妨げてゐた。
城外にゐた張飛、関羽たちは、すぐさま馬を打つて駆け入らうとしたが、城中の空気、鼎(かなへ)の沸く如く、凡事(たゞごと)とも思はれないので、
「待て、しばし」
と急に押(おし)止め、
「孔明、孔明。こゝの進退は、どうしたらいゝか」
と、訊ねた。
孔明は、うしろから即答した。
「凶血が煙つてゐます。恐らく同士打ちを起してゐるのでせう。然(しか)し、入るべからずです。道を更(か)へて江陵(カウリヨウ)(湖北省・沙市、揚子江岸)へ行きませう」
「えつ、江陵へ?」
「江陵の城は、荊州第一の要害、銭粮の蓄へも多い土地です。ちと遠くではありますが……」
「おゝ、急がう」
玄徳が引つ返して行くのを見ると、日頃、玄徳を慕つてゐた城中の将士は、争つて、蔡瑁の麾下から脱走した。折ふし城門の混乱に乗じて、彼のあとを追つて行く者、引きも切らない程だつた。
さうした玄徳同情者のうちでも最も堂々たる名乗りをあげた魏延は、張允、文聘などに取囲まれて、部下の兵はほとんど討たれてしまひ、たゞ一騎となつて、巳(み)の刻(こく)から未(ひつじ)の刻の頃まで、なほ戦つてゐた。
そして遂に、一方の血路を斬りひらき、満身血となつて、城外へ逸走して来たが、すでに玄徳は遠く去つてしまつたので、やむなくひとり長沙へ落ちて、後、長沙の太守(タイシユ)韓玄(カンゲン)に身を寄せた。
さて、玄徳はまた、数万の百姓をつれて、江陵へ向つて行つたが何分にも、病人はゐるし、足弱な女も多く、幼を負ひ、老を扶け、おまけに家財を携へて、車駕(シヤガ)担輿(タンヨ)など雑然と続いて行く始末なので道は漸く一日に十里(支那里)も進めば関の山といふ状態であつた。
これには、孔明も困りはてゝ、遂に対策もないかのやうに、
「身をかくす一物もないこの平野で、もし敵につゝまれたら、殆(ほとん)ど一人として生きることはできますまい。もう御決断を仰がなければなりません」
と、眉に悲壮なものを湛(たゝ)へて玄徳にかう迫つた。
***************************************
次回 → 亡流(四)(2025年9月30日(月)18時配信)

