吉川英治『三国志(新聞連載版)』(624)亡流(二)
昭和16年(1941)9月28日(日)付掲載(9月27日(土)配達)
ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 亡流(一)
***************************************
徐庶は、命を奉じて、やがて樊城へ使した。
「なに、曹操の使として、徐庶が見えたと」
玄徳は、旧情を呼び起した。孔明と共に、堂へ迎へ、
「かゝる日に、御辺と再会しようとは」
と、嘆じた。
語りあへば、久濶の情は尽きない。けれど今は敵味方である。徐庶はあらためて云つた。
「今日、それがしを向けて、あなたに和睦を乞はしめようとする曹操の本志は、和議にあらず、たゞ民心の怨嗟を転嫁せん為の奸計です。これに乗つて、一時の安全をはからうとすれば、怖らく悔を百世に残しませう。不幸、自分はあなたの敵たる陣営に飼はれる身となり、今は老母も死してこの世にはありませんが、もしこの使から帰らなければ、世人はそれがしの節操を疑ひ、且(かつ)嘲(あざけ)り笑ふでせう。——ぜひもない宿命、たゞ今の一言を、呈したのみで立ち帰りまする」
と、すぐ暇(いとま)を告げ、なほ帰りがけにも繰返して云つた。
「逆境また逆境、さだめし今のお立場は御不安でせう。しかし以前と事ちがひ、唯今では、君側の人に、諸葛先生が居られます。かならずあなたの抱く王覇の大業を扶(たす)け、やがて今を昔に語る日があることを信じてをります。それがしは老母も死し、何一つ世の為に計ることもできない境遇に置かれてゐますが、たゞひとつ、あなたの御大成を陰ながら念じ、またそれを楽しみにしてゐませう。……では、くれ/゛\も御健勝に」
徐庶が帰つて、曹操に返辞をする迄(まで)のあひだに、玄徳は、ふたゝび、城を捨てゝ、他に安らかな地を求めなければならなかつた。
せつかく誘降の使をやつたのにそれを拒絶したといふ報告を聞けば、曹操はたちまち、
(民を戦禍に投じたものは玄徳である)
と、罪を相手に〔なすつ〕て百万の軍にぞんぶんな蹂躙を命じ、颱風(タイフウ)のごとく攻めて来ることはもう決定的と見られたからである。
「襄陽に避けませう。この樊城よりは、まだ襄陽の方が、防ぐに足ります」
孔明のすゝめに、勿論、玄徳は異議もなかつたが、
「自分を慕つて、自分と共に、ここへ避難してゐる無数の百姓達をどうしよう」
と、領民の処置を案じて、決しきれない容子だつた。
「君をお慕ひ申し上げて、君の落ち行く先なら、何処までと従(つ)いて来る可憐な百姓共です。たとへ足(あし)手(で)纏(まと)ひにならうと、引(ひき)具してお移りあるべきでございませう」
孔明のことばに、玄徳も、
「さらば——」
と、関羽に渡江の準備を命じた。
関羽は、江頭に舟をそろへ、さて数万の百姓をあつめて、
「われ等と共に、赴(ゆ)かんとする者は江を渡れ。あとに残らうと思ふ者は、去つて旧地の田を耕すがいい」
と、云ひ渡した。
すると、百姓老幼、みな声をそろへ、共に哭(な)いて、
「これから先、たとへ山を拓(ひら)いて喰ひ、石を鑿(うが)つて水を汲むとも、劉皇叔さまに従つて参りたうございます。つひに生命を失つても、使君(シクン)(玄徳のこと)をお恨みはいたしません」
と、云つた。
そこで関羽は、糜竺、簡雍などと協力して、この厖大(バウダイ)なる大家族を、次々に舟へ盛り上げては対岸へ渡した。
玄徳も、舟に移つて、渡江しにかかつたが、折もあれ、この方面へ襲(よ)つて来た曹軍の一手——約五万の兵が、馬けむりをあげて、樊城城外から追ひかけて来た。
「すはや、敵が」
と聞くなり岸に群れ惑ふ者、舟の中に哭(な)きさけぶ者、過(あやま)つて河中に墜ち入る者など、男女老幼の悲鳴は、水に谺(こだま)して、思はず耳を掩(おほ)ふばかりだつた。
「あはれや、無辜(ムコ)の民草(たみぐさ)達、我あらばこそ、このやうな禍をかける。——我さへなければ」
と、玄徳はそれを眺めて、身悶えしてゐたが、突然、舷に立つて、河中に身を投げようとした。
***************************************
次回 → 亡流(三)(2025年9月29日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

