吉川英治『三国志(新聞連載版)』(623)亡流(一)
昭和16年(1941)9月27日(土)付掲載(9月26日(金)配達)
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渦まく水、山のやうな怒濤(どとう)、そして岸(きし)搏(う)つ飛沫(しぶき)。この夜、白河(ハクガ)の底に、溺れ死んだ人馬の数はどれ程か、その大量なこと、測り知るべくもない。
堰(せき)を切り、流した水なので、水勢は一時的ではあつた。しかし猶(なほ)、餘勢の激流は滔々と岸を洗つてゐる。
僥倖にも、曹仁、曹洪の二大将は、この大難から辛(から)くも遁(まぬか)れて、博陵(ハクリヨウ)の渡口(わたし)まで逃げて来たが、たちまち一(イツ)彪(ペウ)の軍馬が道を遮断して呼ばはつた。
「曹軍の残兵ども、どこへ落ちてゆくつもりだ。燕人(エンジン)張飛がこれに待ち受けてゐるのも知らずに」
こゝでも亦(また)、潰滅をうけて、屍山血河を作つた。曹仁の身もすでに危かつたが、許褚が取つて返し、張飛と槍を合はし、万死のうちから彼を救つた。
張飛は、大魚を逸したが、
「あゝ愉快、久しぶりで胸がすいたぞ。これくらゐ叩きのめせば、まづよからう」
と、兵を収めて江岸をのぼり、かねて諜(しめ)し合せてある玄徳や孔明と一手になつた。
そこには劉封、糜芳などが、船をそろへて待つてゐた。
玄徳以下の全軍が対岸へ渡り終つたころ、夜は白みかけてゐた。
孔明は、命を下して、
「船をみな焼き捨てろ」
と、云つた。
そして、無事、樊城へ入つた。
この大敗北は、やがて宛城にゐる曹操の耳に達した。曹操は、すべてが孔明の指揮にあつたといふ敗因を聞いて、
「諸葛匹夫、何者ぞ」
と、怒髪をたてゝ罵つた。
すでに彼の大軍は彼の命を奉じて、新野、白河、樊城など、一挙に屠(ほふ)るべく大行動に移らうとした時である。帷幕(ヰバク)にあつた劉曄が切にいさめた。
「丞相の威名と、仁慈は、北支に於てこそ、遍(あまね)く知られてをりますが、この地方の民心はたゞ恐れることだけを知つて、その仁愛も、丞相を戴(いたゞ)く福利も知りません。——故に玄徳は、百姓を手なづけて、北軍を鬼の如く恐れさせ、老幼男女こと/゛\く民のすべてを引(ひき)連れて樊城へ移つてしまひました。——この際、お味方の大軍が、新野、樊城などを踏み荒し、その武威を示せば示すほど、民心はいよ/\丞相を恐れ、北軍を敬遠し、その徳に〔なづく〕ことはありません。——民なければ、いかに領土を奪つても、枯野に花を求めるやうなものでせう。……如(し)かず、こゝはぜひ御堪忍あつて、玄徳に使を遣(や)り、彼の降伏を促すべきではありますまいか。玄徳が降伏せねば、民心のうらみは玄徳にかゝりませう。そして荊州のお手に入るのは目に見えてゐる。すでに荊州の経略が成れば、呉の攻略も易々(イヽ)たるもの。天下統一の御覇業は、こゝに完(まつた)きを見られまする。——何をか、一玄徳の小(こ)悪戯(いたづら)に関はつて、可惜(あたら)、貴重な兵馬を損じ、民の離反を求める必要がございませうか」
劉曄の献言は大局的で、一時〔いきり〕立つた曹操にも、大いに頷(うなづ)かせるところがあつた。しかし曹操は、
「それなら一体誰を、玄徳のところへ使に遣(や)るか」
といふ事になほ考へを残してゐるふうだつた。
劉曄は一言のもとに、
「それは、徐庶が適任です」
と、云つた。
ばかを云へ——といはぬばかりに曹操は劉曄の顔を〔しり〕目に見て、
「あれを玄徳の許(もと)へやつたら、再び帰つて来るものか」
と、唇(くち)をむすんで、大きく鼻から息をした。
「いや/\、玄徳と徐庶との交情は、天下周知のことですが、それ故に、もし徐庶が御信頼を裏切つて、この使から帰らなかつたりなどしたら、天下の物笑ひになります。彼以外に、この使の適任者はありません」
「なるほど、それも一理だな」
彼はすぐ幕下の群将のうちから、徐庶を呼び出して、厳かに、軍の大命をさづけた。
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