吉川英治『三国志(新聞連載版)』(622)新野を捨てゝ(四)
昭和16年(1941)9月26日(金)付掲載(9月25日(木)配達)
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一(イツ)塊(クワイ)の大石や、一箇の木材で、幾十か知れない人馬が傷つけられた。
許褚も、これは堪(たま)らないと、あわてゝ兵を退(ひ)いた。そして、ほかの攻め口を尋ねた。
彼方の峰、こなたの山、大擂(ダイライ)の音や金鼓(キンコ)のひゞきが答へ合つて聞えるのである。
「背後(うしろ)を断たれては」
と、許褚はいたづらに、敵の所在を考へ迷つた。
そのうちに曹仁、曹洪などの本軍もこれへ来た。曹仁は叱咤して、
「児戯に類する敵の作戦だ。麻酔にかけられては成らん。前進たゞ前進あるのみ」
と、遮二無二、猛進をつづゞけ、つひに新野の街まで押(おし)入つてしまつた。
「どうだ、この街の態(テイ)は。これで敵の手のうちは見えたらう」
曹仁は、自分の達見を誇つた。城下にも街にも敵影は見あたらない。のみならず百姓も商家もすべての家はガラ空(あき)である。老幼男女は元より嬰児(あかご)の声一つしない死の街だつた。
「いかさま、百計尽きて、玄徳と孔明は将士や領民を引きつれて、逸(いち)早く逃げのびてしまつたものと思はれる。——さて/\逃げ足の〔きれい〕さよ」
と曹洪や許褚も笑つた。
「追(おひ)かけて、殲滅戦(センメツセン)にかからう」
といふ者もあつたが、人馬もつかれてゐるし、宵の兵糧もまだつかつてゐない。こよひは一宿して、早暁、追撃にかゝつても遅くはあるまいと、
「やすめ」
の令を、全軍につたへた。
その頃から風が募り出して、暗黒の街中は沙塵がひどく舞つた。曹仁、曹洪等の首脳は城に入つて、帷幕(いばく)(ママ)のうちで酒など酌んでゐた。
すると、番の軍卒が、
「火事、火事」
と、外(おもて)で騒ぎ立てて来た。部将たちが、杯(さかづき)をおいて、慌てかけるのを、曹仁は押(おし)止めて、
「兵卒共が、飯を炊(かし)ぐ間に、誤つて火を出したのだらう。帷幕で慌てなどすると、すぐ全軍に影響する。躁(さは)ぐに及ばん」
と、餘裕を示してゐた。
ところが、外の騒ぎは、いつ迄(まで)も熄(や)まない。西、北、南の三門はすでにこと/゛\く火の海だといふ。追々、炎の音、人馬の跫音など、凡(たゞ)ならぬものが身近に迫つて来た。
「あつ、敵だつ」
「敵の火攻めだつ」
部将のさけびに曹洪、曹仁も胆(きも)を冷やして、すはとばかり出て見たときは、もう遅かつた。
城中は濛々と黒煙につゝまれてゐる。馬よ、甲(よろひ)よ、矛(ほこ)よ、とうろたへ廻る間(ま)にも、煙は眼をふさぎ鼻をつく。
更に、火は風を喚(よ)び、風は火を呼び、四方八面、炎と化したかと思ふと、城頭に聳(そび)えてゐる三層の殿楼やそれに聯(つら)なる高閣など、一度に轟然と自爆して、宙天には火の柱を噴き、大地へは火の簾(すだれ)を降らした。
わあつと、声をあげて、西門へ逃げれば西門も火。南門へ走れば南門も火。こは堪(たま)らじと、北門へ雪崩(なだ)れを打つてゆけば、そこも大地まで燃え旺(さか)つてゐる。
「東の門には、火がないぞ」
誰(たれ)いふとなく喚きあつて、幾万といふ人馬がわれ勝ちに一方へ押し流れて来た。互ひに手脚を踏み折られ、頭上からは火の雨を浴び、焼け死ぬ者、幾千人か知れなかつた。
曹仁、曹洪等は、辛くも火中を脱したが、道に待つてゐた趙雲に阻まれて、さん/゛\に打ちのめされ、あわてゝ後へ戻ると、劉封、糜芳が一軍をひきいて、前を立(たち)塞いだ。
「これは?」
と仰天して、白河の辺(あたり)まで逃げ走り、ほつと一息つきながら、馬にも水を飼ひ、将士も争つて、河の水を口へ掬(すく)ひかけてゐたが、——かねて上流に埋伏してゐた関羽の一隊は、その時、遠く兵馬のいなゝきを耳にして、
「今だ!」
と、孔明の計を奉じて、土嚢の堰(せき)を一斉に断(き)つた。さながら洪水のやうな濁浪は、闇夜(アンヤ)の底を吠えて、曹軍数万の兵を雑魚(ざこ)のやうに呑み消した。
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