吉川英治『三国志(新聞連載版)』(620)新野を捨てゝ(二)
昭和16年(1941)9月23日(火)付掲載(9月22日(月)配達)
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孔明も共にすゝめた。
「伊籍のことばに、私も同意します。今こそ御決断の時でせう」
併(しか)し玄徳は、たゞ涙を垂るゝのみで、やがてそれにかう答へた。
「いや/\臨終の折に、あのやうに孤子(みなしご)の将来を案じて、自分に後を託した劉表のことばを思へば、その信頼に背くやうな事はできない」
孔明は、舌(した)打(うち)して、
「いまにして、荊州も取り給はず遅疑逡巡、曹操の来攻を、拱手してこゝに見てゐるおつもりですか」
と、殆(ほとん)ど、玄徳の戦意を疑ふばかりな語気で詰問(なじ)つた。
「ぜひもない……」と、玄徳は独りでそこに考へをきめてしまつてゐるもののやうに——「この上は新野を捨てゝ、樊城へ避けるしかあるまい」
と、云つた。
ところへ、早馬が来て、城内へ告げた。曹操の大軍百万の先鋒はすでに博望坡まで迫つて来たといふのである。
伊籍は愴惶(サウクワウ)と帰つてゆく。城中はすでにたゞならぬ非常時色に塗りつぶされた。
「とまれ、孔明あるからには、御心(みこころ)をやすんじ給へ」
玄徳をなぐさめて、孔明はたゞちに、諸将へ指令した。
「まづ、防戦の第一着手に、城下の四門に高札を掲げ——百姓商人老幼男女、領下のものこと/゛\く避難にかゝれ、領主に従つて難を避けよ、遅るゝ者は曹操のためかならずみなごろしに成らん——と誌(しる)して布令なす事」
と、手配の順に従つて、猶(なほ)、次のやうに云ひわたした。
「孫乾(そんかん)は西河(サイカ)の岸に舟をそろへて避難民を渡してやるがよい。糜竺はその百姓たちを導いて、樊城へ入れしめよ。また関羽は千餘騎をひきヰて、白河(ハクガ)上流(かみ)に埋伏して、土嚢を築いて、流れを堰(せ)き止めにかゝれ」
孔明は、諸将の顔を見わたしながら、こゝでちよつと、ことばを休め、関羽の面(おもて)にその眸をとゞめて云ひ足した。
「——明日の夜三更の頃、白河の下流(しも)にあたつて、馬のいなゝきや兵のさけびの、もの騒がしう聞えたときは、すなはち曹軍の潰乱(クワイラン)なりと思ふがよい。上流にある関羽の手勢は、たゞちに土嚢の堰を切つて落し、一斉に、激水と共に攻めかゝれ。——更に、張飛は千餘騎をひつさげて、白河の渡口(わたし)に兵を伏せ、関羽と一手になつて曹操の中軍を完膚なきまで討ちのめす事」
孔明のひとみは、関羽から張飛の面へ移つて云ひつける。張飛は〔らん〕とした眼をかゞやかして、大きくそれへ頷(うなづ)く。
「趙雲やある!」
孔明が、名を呼んだ。
諸将のあひだから、趙雲は、おうつと答へながら、一歩前へ出た。
「御辺には、兵三千を授ける」
孔明は厳かに云つて、
「——乾燥した、柴、蘆(よし)、茅(かや)など充分に用意されよ。硫黄(イワウ)焰硝(エンセウ)をつつみ、新野城の楼上へ積みおくがよい。明日の気象を考へるに、おそらく暮方から大風が吹くであらう。勝ち驕(おご)つた曹操の軍は、風と共に、易々(やす/\)と、陣を城中にうつすは必然である。——時に御辺は、兵を三方にわけて、西門北門南門の三手から、火矢、鉄砲、油礫(あぶらつぶて)などを投げかけ、城頭一面火焰と化すとき、一斉に、兵なき東の門へ馳け迫れ。——城内の兵は周章狼狽、こと/゛\くこの門から逃げあふれて来るであらう。その混乱を存分に討つて、よしと見たらすぐ兵を引つ回(かへ)せ。白河の渡口(わたり)へ来て関羽、張飛の手勢と合すればよい。——そして樊城をさして急ぎに急げ」
あらましの指令は終つた。命をうけた諸将は勇躍して立ち去つたが、なほ糜芳、劉封などが残つてゐた。
「二人には、これを」
と孔明は、特に近く呼んで、糜芳へは紅(くれない)(ママ)の旗を与へ、劉封には青い旗を渡した。いかなる計を授けられたか、その二将もやがて各各千餘騎をしたがへて、——新野を距(さ)ること約三十里、鵲尾坡(ジヤクビハ)の方面へ急いで行つた。
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9月24日付夕刊は秋季皇霊祭(秋分日)に伴い休刊でした。このため、9月23日(火)の配信はありません。

