吉川英治『三国志(新聞連載版)』(619)新野を捨てゝ(一)
昭和16年(1941)9月21日(日)付掲載(9月20日(土)配達)
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百万の軍旅は、いま河南の宛城(南陽)まで来て、近県の糧米や軍需品を徴発し、いよいよ進撃に移るべく、再整備をしてゐた。
そこへ、荊州から降参の使として、宗忠(ソウチウ)の一行が着いた。
宗忠は、宛城の中で、曹操に謁して、降参の書を奉呈した。
「劉琮の輔佐には、賢明な臣がたくさんゐるとみえる」
曹操は大満足である。
かう使を賞めて、
「劉琮を忠烈侯に封じて、長く荊州の太守たる保證を与へてやらう。やがてわが軍は、荊州に入るであらうから、その時には、城を出て、曹操の迎へに見えるがいい。——劉琮に会つて、その折、なほ親しく語る事もあらう」
と、云つた。
宗忠は、衣服鞍馬を拝領して、首尾よく荊州へ帰つて行つた。
その途中である。
江を渡つて、渡船場から上つて来ると、一隊の人馬が馳けて来た。
「何者だつ、止れつ」
と、誰何(スヰカ)されて、馬上の将を見ると、この辺の守りをしてゐた関羽である。
「しまつた」
と思つたが、逃げるにも逃げきれない。宗忠は彼の訊問に有りの儘(まゝ)を答へるしかなかつた。
「何。降参の書を携へて、曹操の陣へ使した帰りだと申すか?」
関羽は、初耳なので、驚きに打たれた。
「これは、自分だけが、聞き流しにしてゐるわけには参らぬ」
有無を云はせず、彼は、宗忠を引ツさげて、新野へ馳けた。
新野の内部でも、この政治的な事実は、いま初めて知つたことなので、驚愕はいふまでもない。
わけて、玄徳は、
「何たる事か!」
と、悲涙に咽んで、昏絶せんばかりだつた。
激し易い張飛のごときは、
「宋忠(ソウチウ)の首を刎ねて血祭りとなし、たゞちに兵をもつて荊州を攻め取つてしまへ。さすれば無言のうちに、曹操へ遣(や)つた降参の書は抹殺され、無効になつてしまふ」
と、喚(わめ)きちらして、いやが上にも、諸人を動揺させた。
宋忠は生きた心地もなく、恟々(おど/\)して、城中に漲(みなぎ)る悲憤の光景をながめてゐたが、
「今となつて、汝の首を刎ねたところで、何の役に立つわけもない。そちは逃げろ」
と、玄徳は彼を宥(ゆる)して、城外へ放つてやつた。
ところへ、荊州の幕賓、伊籍がたづねて来た。宋忠を放つた後で、玄徳は、孔明その他を集めて評議中であつたが、ほかならぬ人なのでその席へ招じ、日頃の疎遠を謝した。
伊籍は、蔡夫人や蔡瑁が、劉琦をさしおいて、弟の劉琮を国主に立てたことを痛憤して、その鬱懐を、玄徳へ訴へに来たのであつた。
「その憂(うれい)を抱(いだ)くものは、あなたばかりでありません」と、玄徳はなだめて後、
「——しかも、まだ/\あなたの憂はかろい。あなたのご存じなのは、それだけであらうが、もつと痛心に耐へないことが起(おこ)つてゐる」
「何です?これ以上、痛心にたへない事とは」
「故太守が亡くなられて、まだ墳墓の土も乾かないうち、この荊州九郡をそつくり挙げて、曹操へ降参の書を呈したといふ一事です」
「えつ、ほんとですか」
「偽りはありません」
「それが事実なら、なぜ貴君には、直(たゞち)に、喪を弔(とむら)ふと号して、襄陽に行き、あざむいて幼主劉琮をこちらへ、奪ひ取り、蔡瑁、蔡夫人などの奸党閥族を一掃してしまはれないのですか」
日頃、温厚な伊籍すら、色をなして、玄徳をさう詰問(なじ)るのであつた。
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次回 → 新野を捨てゝ(二)(2025年9月22日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。

