吉川英治『三国志(新聞連載版)』(618)許都と荊州(四)
昭和16年(1941)9月20日(土)付掲載(9月19日(金)配達)
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すると、末席にゐた幕官(バククワン)の李珪(リケイ)といふ者が、劉琮の言へ即座にこたへて、
「おう若君、よくぞ仰せられました。実(げ)に天真爛漫、いまの君のおことばこそ、人間の善性といふものです。君臣に道あり、兄弟に順あり、お兄君をしのいでお継ぎになるなど、元より逆の甚だしいものです。いそぎ使を馳せて江夏より兄君を迎へられ、琦君を国主とお立て遊ばし、玄徳を輔佐としてまづ内政を正し、然(しか)る後、北は曹操を防ぎ、南は孫権にあたり、上下一体となるのでなければ、この荊州の滅乱はまぬかれません!」
と、憚(はゞか)る色もなく直言した。
蔡瑁は、赫怒(カクド)して、
「みだりに舌をうごかして、故君の御遺言を辱かしめ、部内の人心を攪乱する賊臣め。黙れつ、黙りをろうつ」
と、大喝しながら、武士と共に、李珪の側へ馳け寄つて、
「これへ出ろ」
と、引(ひき)摺(ず)り出した。
李珪は悪びれずになほも、
「国政にあづかる首脳部の方々からして、順を紊(みだ)し、法をやぶり、何とて他国の侵攻を防ぎ得ませうや。この国の亡ぶは眼に見えてゐる」
と、叫んで熄(や)まなかつたが、途端に蔡瑁が抜き払つた剣の下に、あはれその首は斬り落されてゐた。
死屍は市(いち)の不浄(フジヤウ)墳(づか)に取(とり)捨てられたが、市人は伝へ聞いて、涙を流さぬは無かつたといふ。
襄陽の東四十里、漢陽の荘麗なる墓所に、故劉表の柩(ひつぎ)は国葬された。蔡氏の閥族は、劉琮を国主として、これから思ふまゝに政(まつりごと)をうごかしたが、時(とき)将(まさ)に未曽有の国難の迫つてゐる折から、果(はた)してそんな態勢で乗り切れるかどうか、心あるものは危ぶんでゐた。
蔡夫人は、劉琮を守護して、軍政の大本営を襄陽城に移した。
時すでに、曹操の大軍は刻々南下して、
「はや宛城に近し!」
とさへ聞えて来たのである。
幼主と蔡夫人を主座に仰ぎ、蔡瑁、蒯越以下、宿将群臣たちは日々評議に餘念なかつた。
「一戦いなみ難し」
とする軍の主戦論は、濃厚であつたが、文官側にはなほ異論が多い。
就中(なかんづく)、東曹(トウサウ)の掾(ヱン)(ママ)公悌(コウテイ)は、
「三つの弱点がある」
と、国内の不備をかぞへて、非戦論を主張した。
その一は、江夏の劉琦が、国主の兄でありながら、まつたく排(の)け者にされてゐる不満から、いつ荊州の背後を突くか知れないといふ不安。
二には、玄徳の存在である。しかも玄徳のゐる新野は、この襄陽と江水(カウスヰ)ひとつを隔てた近距離にある。怖らく玄徳の向背はこの際、測り知れないものがあらうといふ点。
三つには、故太守の歿後、まだ日も経つてゐないので、諸臣の不一致、内政の改革、あらゆる備へが、まだ完(まつた)き臨戦態勢に至つてゐない——といふのであつた。
「その説に自分も同感である。自分をもつていはせれば、更に三つの不利がある」
と、続いて山陽(サンヤウ)高平(カウヘイ)の人、王粲(ワウサン)字(あざな)は仲宣(チウセン)が起(た)つて戦に入る三害を力説した。
一、中国百万の軍は、朝廷をひかへ、抗するものは、違勅の汚名をうける。
一、曹操は威雷電のごとく、その強馬精兵は久しく名あるところ。荊州の兵は、久しく実戦の体験がない。
一、たとへ玄徳を恃(たの)みとするも、玄徳の拒(ふせ)ぎ得る曹操ではない。もし又、曹操に当り得るほどな実力を彼に附与すれば、何で玄徳が、わが君の下風(カフウ)に屈してゐよう。
公悌の云ふ三弱、王粲の挙げた三害、かう数へたてれば、荊州は到底、中国百万の軍と雌雄を決して勝てる強味はどこにもない。
結局、降服の道しかなかつた。即ち、和を乞ふの書を携へて、襄陽の使は南進中の曹操の軍へ、急遽派遣されたのであつた。
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