吉川英治『三国志(新聞連載版)』(617)許都と荊州(三)
昭和16年(1941)9月19日(金)付掲載(9月18日(木)配達)
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曹操みづから、許都の大軍をひきゐて南下すると、頻々、急を伝へて来る中を、荊州の劉表は、枕も上らぬ重態をつゞけてゐた。
「御身と予とは、漢室の同宗親身の弟とも思うてゐるのに……」
病室に玄徳を招いて、彼は、喘(き)れ/゛\な呼吸(いき)の下から説いてゐた。
「予の亡い後、この国を、御身が譲りうけたとて、誰が怪しまう。奪つたなどゝいはう。……いやいはせぬやうに、予が遺言状をしたためておく」
玄徳は、強(た)つて辞した。
「せつかくの尊命ですが、あなたには御(お)子(こ)達がいらつしやゐます。何で私が御国を継ぐ必要などありませう」
「いや、その孤子(みなしご)の将来も、御身に託せば安心ぢや。どうかあの至らぬ子等を扶け、荊州の国は御身が受け継いでくれるやうに」
遺言にひとしい切実な頼みであつたが、玄徳はどうしても受けなかつた。
孔明は後にその由を聞いて、
「あなたの律義は、却(かへ)つて、荊州の禍を大にしませう」
と、痛嘆した。
その後、劉表の病は重(おも)るばかりな所へ、許都百万の軍勢はすでに都を発したと聞えて来たので、劉表は気魄も顫(おのゝ)き飛ばして、遺言の書をしたゝめて後事を玄徳に頼んだ。——御身が承知してくれないならば、嫡子の劉琦を取立てゝ荊州の主に立てゝくれよといふのであつた。
蔡夫人は、穏やかならぬ胸を抱(いだ)いた。彼女の兄蔡瑁や腹心の張允(チヤウイン)も、大不満を含んで、早くも、
「いかにして、琦君を排し、劉琮の君を立てるか」を、日夜、ひそひそ凝議してゐた。
——とも知らず、劉表の長男劉琦は、父の危篤を聞いて、遠く江夏の任地から急いで荊州へ帰つて来た。
そして旅舎にも憩はず、直(たゞち)に城へ入つて来ると、内門の扉(と)はかたく彼を拒んで入れなかつた。
「父の看(み)護(とり)に就(つ)かうものと、はるばる江夏から急いで来た劉琦なるぞ。城門の者、番の者、こゝを開けい。通してくれよ」
すると、門の内から蔡瑁は声高に答へた。
「父君(フクン)の御命をうけて、国境の守りに赴かれながら、無断に江夏の要地をすてゝ、御帰国とは心得ぬお振舞。いつたい誰のゆるしをうけてこれに来られたか。軍務の任の重きことをお忘れあつたか。たとへ御嫡子たりともここをお通しするわけには参らん。——疾々(とく/\)お帰りあれ、お帰りあれ」
「その声は、瑁(バウ)伯父(ヲヂ)ではないか。せつかく遠路を参つたのに、門を入れぬとは無情であらう。すぐ江夏へ帰るほどに、せめて父君にひと目会はせてくれい」
「ならぬ!」
と、伯父の権を、声に加へて、蔡瑁はさらに〔こツぴどく〕云つて、追ひ払つた。
「病人にせよ、会へばお怒りと極(きま)つてゐる。病を重らすだけの事だ。さすれば孝道にも背くことに相成らう。不孝をする為、わざ/\来られたわけでもあるまい!」
劉琦はやゝ暫く門外に佇(たゝず)んで哭(な)き声をしのばせてゐたが、やがて悄々(しを/\)と馬を回(かへ)して立ち去つた。
秋八月の戊申(つちのえさる)の日、劉表はつひに臨終した。
蔡夫人、蔡瑁、張允などは、偽の遺言書を作つて、
=荊州(けいしゆう)ノ統ハ弟劉琮ヲ以テ継ガスベシ
と披瀝した。
蔡夫人の生んだ二男劉琮は、その時まだ十四歳であつたが、非常に聡明な質だつたので、宿将幕官のゐるところで、或る折、
「亡父君(ちちぎみ)の御遺言とはあるが、江夏には兄上がゐるし、新野には外戚の叔父(シユクフ)劉玄徳がゐる。もし兄(このかみ)や叔父(シユクフ)がお怒りの兵を挙げて、罪を問うて来たら何とするぞ」
と、質問し出したので、蔡夫人も蔡瑁も、顔いろを変へてあわてた。
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