吉川英治『三国志(新聞連載版)』(615)許都と荊州(一)
昭和16年(1941)9月17日(水)付掲載(9月16日(火)配達)
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「こゝに一計が無いでもありません」と、孔明は声を憚(はゞか)つて、さゝやいた。
「国主の劉表は病重く、近頃の容態はどうやら危篤のやうです。これは天が君に幸(さいはひ)するものでなくて何でせう。よろしく荊州を借て、万策をお計りあれ。そこに拠れば、地は広く、嶮(ケン)は狭く、軍需財源、すべて充分でせう」
玄徳は顔を横に振つた。
「それは良計には違ひなからうが、わしの今日あるは、劉表の恩である。恩人の危きに〔つけ〕込んで、その国を奪ふやうなことは忍び得ない」
「この際小乗的なお考へは捨て、大義に生きねば成りますまい。いま荊州を取つておかなければ、後日になつて悔ゆるとも及びませぬ」
「でも、情にもとり、義に缺(か)けるやうなことは」
「かく云ふうちにも、曹操の大軍が襲来いたしたなら、何となさいますか」
「いかなる禍にあはうと、忘恩の徒と誹(そし)られるよりは〔まし〕である」
「噫(あゝ)。まことに君は仁者でいらせられる!」
それ以上、強ひることばも、諫める辞(ジ)もなく、孔明は口をつぐんだ。
さてまた夏侯惇は、口ほどもない大敗を喫して、命から/゛\都へ逃げ上り、みづから面縛して——死を待つ意味で罪人のやうに眼隠しをほどこし——畏(おそ)る/\相府の階下に跼(ひざま)づいた。
(面目なくて会はせる顔もありません)
と云はぬばかりな姿である。
曹操は出座して、それを見ると苦笑した。
「あれを解いてやれ」
と、左右の者へ顎でいひつけ、階を上がることを免(ゆる)した。
夏侯惇は、庁上に慴伏(シヤウフク)(ママ)して、問はるゝまゝ軍(いくさ)の次第を報告した。
「何よりの失策は、敵に火計のあることを覚(さと)らず、博望坡をこえて、渓林(ケイリン)のあひだへ深入りし過ぎた一事でございました。ために丞相の将士を数多(あまた)亡(うしな)ひ、罪万死に値します」
「幼少より兵学を習ひ、今日まで幾多の戦場を往来しながら、狭道には必ず火攻めのあることぐらゐ気づかないで軍の指揮ができるか」
「今更、何の言ひ訳もございません。于禁はそれを覚(さと)つて、それがしにも注意しましたが、後悔すでに及ばなかつたのであります」
「于禁には大将軍たる才識がある。汝も元来の凡将ではない筈。この後の機会に、今日の恥を雪(そゝ)ぐがよい」
と叱つたのみで、深くも咎めなかつた。
その年の七月下旬。
曹操は八十餘万の大軍を催し、先鋒を四軍団にわかち、中軍に五部門を備へ、後続、遊軍、輜重など、物々しい大編制で、明日は許都を発せんと号令した。中太夫(チウタイウ)孔融は、前の日、彼に諫めた。
「北国征略のときすら、こんな大軍ではありませんでした。かゝる大動員をもつて大戦に臨まれなば、怖らく洛陽、長安以来の惨禍を世に捲き起しませう。さる時には、多くの兵を損ひ、民を苦しめ、天下の怨嗟(ヱンサ)は挙げて丞相にかかるやも知れません。なぜならば、玄徳は漢の宗親、何ら朝廷に反(そむ)いたこともなく、また呉の孫権たりといへど、さして不義なく、その勢力は江東江南六郡に股(また)がり、長江の要害を擁してゐるに於ては、いかにお力を以(もつ)てしても……」
「だまれ。霽(はれ)の門出に」
曹操は叱つて、
「なほ申さば、斬るぞ」
と、一喝に退けてしまつた。
孔融は、慨然として、府門を出ながら、
「不仁ヲ以テ仁ヲ討ツ。敗レザラン乎(ヤ)。噫(アヽ)!」
と、嘆いて帰つた。
附近に佇(たゝず)んでゐた厩(うまや)の小者が、ふと耳にして、主人に告げ口した。その主人なる男は、日頃、孔融と仲のわるい郄慮(ゲキリヨ)だつたから、早速、曹操にまみえて、輪に輪をかけて讒言(ザンゲン)した。
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次回 → 許都と荊州(二)(2025年9月17日(水)18時配信)

